宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第21回 「脳のモザイク」説は宗教界のジェンダー論議にどう波及する?

女性神職を目指す人たちは増加傾向だが

 国学院大学に専任教員として在籍したのは36年間である。そのうち当初からの20年間は日本文化研究所の専任教員であったが、2002年に神道文化学部という新しい学部が設置されることになり、その専任教員となった。日本文化研究所は兼担教員となった。

 神道文化学部ができる前は文学部神道学科があり、そこで非常勤講師として講義を担当していたので、学生たちとの交流もいくらかあった。だが、学部の専任教員となると学生たちとの付き合いに要する時間も、また関わりの深さも大きく変わった。卒論の指導、就職の相談、さらに人生相談などがあれば、学生たちが何を考え、何に悩んでいるか知る機会が増えた。神道文化学部に在籍する学生の少なくとも半数は、将来神職になることを目指していた。神道文化コースと宗教文化コースがあるが、神職を目指す人でも宗教文化コースを選ぶ人がけっこういた。私が担当していたのは宗教文化コースのゼミであったが、そこにも毎年数人は将来神職になりたいと希望する学生がいた。

 神職を目指しているゼミの女子学生に相談を受けることも出てきた。近代日本で女性神職が生まれたのは戦後のことである。少しずつ増え女性神職の割合は現在では約2割である*1。しかし宮司となると女性の割合はまだ1割に満たない。圧倒的に男性社会という雰囲気が漂う。学年が進んでそうした神社界の実情を知るにつれ、不安になる女子学生も中にはいた。願い叶って神社に奉職できても短期間で辞めた元ゼミ生もちらほらいた。女性神職になった人が早々に辞職した例は少なくないことも知った。直接あるいは間接的にそうした人たちの話を聞くと、辞めたくなるのは無理もないというケースもあった。

 新宗教であると、女性が半数、あるいはそれ以上の割合で支部長になる教団もある。神社神道や仏教宗派と新宗教とを比較すると、全体的傾向では女性の宗教家の登用の割合にかなり差がある。新宗教の方が女性の占める割合が高い。個人的な経験でも、神職や僧侶の集まりに講演を頼まれた場合と、新宗教の支部長などの集まりに講演を頼まれた場合とでは、雰囲気がかなり異なる。前者ではほぼ全員男性ということも珍しくない。後者ではまずそんなことはなかった。女性が半数近くを占めていたときもある。では新宗教においては男性と女性はまったく差別なく処遇されているかとなると、教団によってはなかなかそうとは言い難い。教団関係者の話を聞いていると、女性教師は男性教師を補佐する存在といった意識が見え隠れすることもある。それでも神社神道や仏教宗派に比べれば、女性が教団の指導的立場に就いたり、日々の宗教活動を主導する例はずっと多い。

 新宗教は近代に形成された。とりわけ20世紀になってから設立された新宗教は、近代における女性の社会的位置づけの影響を、近世以前から続いた宗教に比べてより強く受けたと考えられる。たとえば先祖の観念である。近世では先祖祭祀と言えば父方の先祖を祀ることであった。だが近代には少しずつ意識が変わってきた。1930年代以降に信者を増やした霊友会やそこから分派した教団では、父方と母方の双方の先祖を供養の対象とした。

 宗教界におけるジェンダー問題は、20世紀の末頃から宗教者や研究者によって議論されることが多くなった。それは現在の日本社会の構造に関わるだけでなく、それぞれの宗教に内包されるジェンダー観にも必然的に関わってくる。さらにまた、脳神経科学的な知見も参照すると、この奥深い問題の根の部分への見通しも生まれそうである。

 

モザイク状態の脳

 イスラエルのテルアビブ大学の教授で神経科学・心理学が専門のダフナ・ジョエルとサイエンスライターのルバ・ヴィハンスキの共著『ジェンダーと脳』*2は、日本でも刊行後すぐ注目された。研究者の陥りがちなバイアスを分かりやすく紹介してあって、宗教におけるジェンダー問題を考えていく上でも参考になる。俗受けするような自称脳科学者のそれこそバイアスのかかった印象論とは違い、しっかりとデータを分析して論を進めている。ジェンダー間の不平等を正当化するために、いまだに生物学的な性差が使われることを強く批判している。

 主張されていることは非常に明快である。柔軟な心を持った人には受け入れやすい論理の運びである。男性の脳と女性の脳とに差がみられることがあっても、それはあくまで平均値の差であるとする。この点を直ちに了解するなら、以後の話の展開はきわめて理解しやすくなる。男女の平均値の差をつい男女差としてしまう傾向は日常的によく見受ける。男性と女性の身長を比べれば平均して男性の方が高いが、それはあくまで平均であり、すべての男性がすべての女性より背が高いわけではない。100m走でもマラソンでも平均すれば男性が速い。走り幅跳びでも走高跳びでも、平均すれば男性の方が遠く、高く飛ぶ。しかしたとえば学校の同じクラスの男女2人を任意に選んで100m競走をさせれば、女性の方が勝つ場合もある。こうしたことを指して男性は男性脚を持っているから足が速いなどと言うと変である。では100m競走でビリになる男性は女性脚だというのか。そんな表現は少なくとも一般化はしていない。だが脳全体の特徴づけに際して、男性脳、女性脳という言葉はよく使われ、著者によれば、脳神経科学の分野でもそういう考え方をする人がいるという。

 脳全体ではなく個々の脳の機能に即してみるなら、男女で平均して差が見られる領域があるとし、それを男性脳、女性脳と呼んで話を進めている。その上で、一人ひとりの脳を調べると、それぞれの領域で男性脳的なものと女性脳的なものとが混在している。つまり誰もがモザイク状になっているとするのがこの書の中心的テーマである。しかもそのモザイク状態は一生の中で変わるという。

 人間は環境によってやさしい性格が厳しい性格になったり、消極的だった人が積極的になったりすることはある。食糧事情などによって、痩せた人がある時期から太ったり、その逆が生じたりする。環境次第でいろいろな変化が生じる。だが性転換手術を受けることなく、出生後男性生殖器が女性生殖器になったり、その逆が生じたりすることはない。

 ところが動物の場合は生殖器レベルでも変わってしまう例がある。生まれるときの環境の温度によってオスになるかメスになるかが決まる動物もいる。「温度依存の性決定」と呼ばれる現象である。これまで調べられてきたすべてのワニ、ほとんどのカメ、一部のトカゲがそうだという*3。生育してから環境によって性が変わるのは魚類の一部である。ベラやタイの一部にそれが確認されている。たとえばブルーヘッドというベラ科の魚では、成熟してからメスからオスへと性転換することがある。群れに1匹だけいたオスがいなくなると、残ったメスのうちもっとも大きいメスが10日ほどでオスに性転換するという。クマノミの場合は逆である。群れの中でもっとも大きいものがオスからメスになり、2番目に大きいオスとペアになり産卵する。

 いずれにしてもDNAが変化するのではなくエピジェネティックな変化である。つまりどの遺伝子を発現させるかのスイッチが変化することで劇的な変化が生じる。生物の可変性に関して、エピジェネティックな変化への関心は非常に高まっている。人間の脳が可変的で、一人の人間のある領域が男性脳から女性脳へ、あるいはその逆の変化をすることがあるのは、環境に応じた生物の柔軟な対応という点からすれば少しも不思議でなくなる。

 

内部整合性を求める人間

 ジョエルはそれぞれの人の脳がモザイク状態である点と、それが変化することがある点を、実験結果に基づいて示している。MRI(磁気共鳴画像法)の画像データを踏まえた非常に説得的な見解である。このような研究が出現しているにも関わらず、なぜ単純な「男性脳・女性脳」論議が研究者の間でも絶えることがないのか。ジョエルはその根底にはしばしば男性の方が優れているはず、という暗黙の前提ないし価値観が潜んでいるとする。現代の脳科学者ですらそういう人がいるという。日本では粗雑というより読むに堪えないようなジェンダー論が開陳された書が、けっこう書店に平積みされている。それらは論外としても、科学的な方法をとろうと意識している研究者にも、この社会的に蔓延しているバイアスは強く及ぶ。

 これを「内部整合性」の観点から議論している。「内部整合性」は一人の人間は一貫して男らしいか、あるいは一貫して女らしいはずだという暗黙の了解を指す。これを読んで思い出したことがある。ずいぶん前の話であるが、学生時代に少林寺拳法部の同期であった友人たちに、私が女子大で講義をしているという話をしたとき、「その姿が想像できない」と、同席していた皆が異口同音に言った。激しい乱取りをやっていた私の姿が強く記憶に刻まれているのだろう。他方で、女子大で聴講していた学生たちに、少林寺拳法をやっていたという話をすると、「信じられない」とたいていの学生が言った。いつもにこやかに(一応、学生からの評価である)授業をしていたからだと思う。

 これも内部整合性に含まれるのかもしれないが、自分の周りにいる人はそれぞれが一貫して同じ性格を示すと前提しておくのは、脳にとってとても楽である。時によって、あるいはそれぞれの状況下で、同じ人でも大きく異なった思考や行動をするから、よく見極め対処しなければならないとなると、すこぶる複雑な情報を処理することになる。それは脳に大きな負担を強いる。できればそういう作業は最小限にしておくよう脳が無意識のうちに命令しているとしても無理はない。

 実際に実験してデータを比較したりするような研究分野でさえ、バイアスに支配された研究者が少なくないとすると、宗教史とか宗教文化についての記述が大半を占めるような研究分野では、長く社会に継承されてきたバイアスのくびきから自由になることは相当に難しい。男性と女性とでは平均してどちらが背が高いかなどは調べるすべがある。これに対し、男性がリーダーの組織と女性がリーダーの組織はどちらが存続しやすいかとか、まとまりがいいかなどは比較が困難である。平均的に見てという以前に、個別の比較自体が容易でない。仮に中学生なり高校生なりを2つのグループに分けて、男子がリーダーであった場合と女子がリーダーであった場合のまとまり具合を比較したとて、そこから結論を出すのはあやうい。リーダーの個性だけでなく、グループ分けしたとき、すでに存在していた人間関係などで左右されたかもしれない。

 

戦前でも女性の布教師が活躍した神道教派

 話が宗教団体におけるジェンダー観となると、関係する人々がすでに抱いている男性の宗教家と女性の宗教家に対する諸イメージが交錯する。それらはいずれも社会や文化の中に深く沈み込んでいる。明治期から昭和前期までは多くの分野で、男性と女性の社会的役割にはっきりとした差別が存在した。政治からは女性は締め出され状態にあった。国立大学に女性は入学できなかった。こうした社会制度は当時のジェンダー観を基盤にしているから、宗教界にも及んだのは当然である。それでも宗教ごとの違いはあった。

 神社神道、仏教宗派、キリスト教会、あるいは新宗教教団においては、戦前は女性の位置づけがそれぞれ異なる。私見では、近代において新宗教が数多く生まれ、短期間に大きな組織となった理由の1つは、女性を各地域のリーダーとして採用したことにある。女性が小集団のリーダーとして適していると見なしたのではない。近代日本において多くの女性が抱えていた家庭や近隣との付き合いの中で生じる悩みや苦しみに対しては、女性の方が経験に基づく現実的な対応を示せることが多かったと考えたのである。

 戦前は女性神職はいなかったが、神道教派の中には、宗教者として特別の資格を取得した女性が大きな役割を果たした教派がある。昨年刊行した『神道の近代』*4の第4章で戦前の神道十三派*5の1つであった神理教の「巫神占かんなぎべかみうら免許」取得者数の男女別変遷を分析した。神理教管長の厚意で閲覧が可能になった「巫神占免許台帳」という貴重な資料に基づいての分析である。1907年から1945年までの間に5千人以上の教師がこの免許を取得しているが、女性の方が若干多い。戦後はその差がさらに開いている。神理教は戦前に教勢を拡大する過程で、すでにそれぞれの地方で活動していた宗教家を自教派の教師に組み込んでいく場合が少なからずあったので*6、それも女性教師が多かった理由の1つと考えられる。ちなみに神理教から内務省に報告された教師数(1894~1912年)だと「巫神占免許」取得者数の10倍以上になっていて、教師数だと男性が8割以上を占めている。「巫神占免許」を取得した人の方が布教に貢献したと考えられる。神理教における女性の役割の大きさが推測される。

 戦後においても、戦前の社会制度を引きずり、女性神職や女性僧侶は一段低く見られがちという状況はなかなか変わっていないのが実情である。その理由を考えるとき、儒教が担ってきた人間観の影響を無視できない。儒教は対人関係の基本を示す五倫*7の1つに「夫婦の別」があるように、ジェンダーに関しては男女の役割の違いを当然としている。また「父子の親」はあるが、母子関係への言及はない。儒教の核心にあるジェンダー観は、江戸時代から明治時代へと継承され、戦後においてもその影響が家族、地域社会、さらに一部の企業にも脈々と引き継がれている。LGBTQを受け入れることや同性婚などに強い拒否感を示す論者には、しばしば儒教的価値観の影響が強く見て取れる。広く社会に浸透したこの儒教的価値観は、たとえ教義の中に明瞭に組み込まれずとも、近代の神道、仏教、新宗教、さらにキリスト教のジェンダー観に有形無形の影響を与えている。

 

宗教研究者が持つバイアス

 男性脳・女性脳の議論は「男らしさ」とか「女らしさ」として議論されてきたことと連接している。近代以降の日本社会で支配的であったジェンダー観の影響は、度合いが違うにしてもすべての宗教に及んでいるが、それと同時に、宗教研究者もまたその影響を受けている。研究者にもジェンダー問題についての無自覚なバイアスがあちこちに見出される。宗教研究者の場合、社会全体におけるジェンダー観からの影響を受けると同時に、それぞれの宗教においてカスタマイズされたジェンダー観からも影響を受ける。自分が長く研究対象としているような宗教に根深く存するジェンダー観から、すっかり自由になるのはなかなか困難である。

 ジェンダー問題に限らず、なるべく客観的で実証的であろうとする科学的な視点を貫いた研究が、宗教を対象とする場合にはけっこう難しいのだと、かねがね感じている。日本で宗教学と呼ばれる分野には教学的な色彩の濃い研究も含まれている。教学研究であれば関連する宗教が当然とする価値観から逃れられない。問題は、教学研究ではない宗教研究においても、研究者が育つ過程で影響を受けた宗教文化に内在する価値観から自由になることが難しい点である。自由になろうとしても何かがまとわりつく。明らかに文化的なバイアスのかかった宗教論などはすぐ見て取れる。たとえば、多神教と一神教を比較して、その優劣にまで言及する研究者がいる。多神教の方が一神教より寛容であるなどと主張する。議論対象の取り上げ方が恣意的というだけでなく、こうした記述が自らの属する宗教文化によって根底で規定されていることには無自覚なのであろう。

 ジェンダー観に関しては別の点を指摘できる。無意識のうちに差別を内包したジェンダー観というより、ジェンダーという視点がそもそも宗教研究の視野に入っていないことがある。神社神道だと戦前は女性神職がいなかったので、戦前の神社神道について論じるときにジェンダーという視点が欠けがちになるのは分かる*8。その影響がまだ残っているのであろうか。戦後は女性神職がしだいに増えたにもかかわらず、近現代における女性神職の研究はまだきわめて少ない。

 他方、新宗教だと中山みき(天理教)、島村みつ(蓮門教)、出口なお(大本)、深田千代子(円応教)、璽光尊(璽宇)、北村サヨ(天照皇大神宮教)、大森智辯(辯天宗)、宮本ミツ(妙智會教団)、安食天恵(大和之宮)、小松神擁(神命愛心会)、岡田恵珠(崇教真光)と、直ちに何人もの女性教祖を挙げられる。研究対象に女性が多く含まれれば、ジェンダー的な視点は必然的に生じる。男性と女性が共に創始者となることもあって、「協働の教祖」という言い方が生まれた。なぜ男性2人でも女性2人でもなく、男女の組み合わせなのか。これもジェンダーの視点からの議論をもたらした。

 このように主たる対象とした宗教における女性宗教者の位置づけが研究者の視点をも左右するのは頷けるとして、そのような社会的、文化的バイアスはどう乗り越えられるのか。研究者側で可能なことの1つは、脳のモザイクといった新しい知見に柔軟に心を開くことである。内部整合性にとらわれ、生物本来の可変性を硬直した枠内に閉じ込めてしまうのは、ある時期の社会的な力であり、それを基盤とする宗教文化である。その意味で根は意外に浅い可能性がある。脳にしろ体にしろ、長い進化の過程でDNAに刻まれた特性であると、1000年2000年で変えようとしても無理であろう。しかしながらエピジェネティックな変化であれば1世代で起こりうる。宗教関連のものに限っても、ジェンダー観は時代ごとの違いが大きく、戦前、戦後、さらには21世紀で比較してもだいぶ変化が生じている。これはエピジェネティックな変化という視点を導入できそうである。歴史的に継承されてきたジェンダー観のそれぞれの部分が、そのときどきでどう発現するかと考えてみる。文化の中に蓄積されたバイアスが何を足場にしているかが見えてくると、それを乗り越えるよすがとなる文化的に継承された別のものが探せるかもしれない。

 

頼みの綱はあるか

 研究者においても、社会的に構築されたバイアスは男女を問わず影響することをジョエルも述べている。性別が分からないようにして論文審査してもらうと、結果に男女差は生じない。だが男性か女性か分かるようにすると、男性の論文の方が高い評価を受ける。そういう実験結果を紹介している。審査者が女性であっても同様のことが起こるという。男性研究者だけが社会のジェンダー観に左右されているのではない。もっとも、この点を不用意に重視すると「女性の敵は女性」のような物言いになってしまう。

 対象とする宗教や宗教文化に対して、先入観や偏見を抑えて実際はどうなのだろうかと問う姿勢を保つのは学問研究の基本のはずだが、それがきわめて困難なことを現実が証明している。バイアスの強い研究結果が受け入れられるのは、社会にも同様のバイアスが広がっているからである。社会に漂うバイアスが研究者に作用し、それに同調するかのようなバイアスを孕む研究結果が社会で受け入れられるという循環構造になっている。これはジェンダー論に限ったことではない。宗教研究者に特有に起こることでもない。最近の脳神経科学などの知見にも目を配り、何が意識的あるいは無意識的差別の源になっているかを見分ける糸口を探さなければならない。

 21世紀になっても、ミソジニー(女性蔑視)が露わな宗教家さえ少なくない。その人の学識とか性格とかには関係なく生まれるこのようなジェンダー論に関わる根強いバイアスは、どこまで生物学的根拠があるのか。社会的・文化的な構築は必ず生物としての人間という側面に根をもっている。ジェンダーをめぐるバイアスは人種的偏見などと同様、普遍的に見いだされる。なぜそうなのかを考えるとき、人間の脳や心の働きの弱点について、正面から向かい合うことが避けられない。

 

※次回は5/11(水)更新予定です

*1:「RIRCチャンネル」の「ウクライナ出身の女性神職、SNSに平和メッセージ~女性神職と巫女との違い~「宗教ニュースを読み解く」No.7」では女性神職や女性宮司の増加とその背景について触れている。

www.youtube.com

*2:ダフナ・ジョエル&ルバ・ヴィハンスキ『ジェンダーと脳―性別を超える脳の多様性』(紀伊国屋書店、2021年)。原著はDaphna Joel and Luba Vikhanski, Gender Mosaic, 2019.

*3:宮川信一「温度で決まる動物のオスとメスの研究」(『理大科学フォーラム 412号』、2019年)参照。

*4:井上順孝『神道の近代―変貌し拡がりゆく神々』(春秋社、2021年)を参照。

*5:十三派は成立順に黒住教、神道修成派、出雲大社教、扶桑教、実行教、神習教、神道大成教、御嶽教、神道大教、禊教、神理教、金光教、天理教である。

*6:井上順孝『教派神道の形成』(弘文堂、1991年)において、このタイプの教派を「高坏型」と名付けた。十三派にはこのタイプが多いが、黒住教、天理教、金光教などは「樹木型」である。大半の新宗教は樹木型である。

*7:五倫とは「父子の親」、「君臣の義」、「長幼の序」、「夫婦の別」、「朋友の信」である。

*8:近代の女性神職についての本格的な研究と言えるのは、小平美香『女性神職の近代―神祇儀礼・行政における祭祀者の研究』(ぺりかん社、2009年)である。この書は近世までと近代との断絶を細かく追っている。

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