宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第3回 教祖の語りと教師の語り

出会いによって人は変わる

 神社への参拝や先祖供養は日本の宗教文化の中に定着している。それに対して近代に新しく起こった新宗教は、それまで地域の共同体に担われていた宗教文化、時には家族が継承してきた宗教文化と時折ぶつかることがあった。キリスト教にもそういう場面があった。典型的な例を挙げれば、家に伝わっていた仏壇を捨てた創価学会会員、神社への初詣を拒否するキリスト教徒などである。もっとも継承されてきた宗教文化の拒否は珍しい話ではない。無宗教者となり神社参拝や仏教行事をしなくなったというのも、継承の拒否である。全体としては社会で宗教文化は長く継承されるにしても、一人ひとりの人生に目を向ければ、家族に継承されてきた宗教を大なり小なり拒否することはよく見られる。

 そうした宗教文化の継承の大きな変動という視点からは、新宗教の広まり方はとりわけ興味深く感じられた。1980年代にいくつかの新宗教教団を個人的に調査していたが、基本的資料やデータの不備を痛感して、本格的な事典を作りたいと考えるようになった。孝本貢氏、対馬路人氏、中牧弘允氏、西山茂氏の4人に共編者となってもらえないかと依頼し承諾してもらった。そして80年代後半に集中的に作業にとりかかった。このときは、夜遅くまで原稿のチェックを続けていて胃を痛め、初めて胃カメラを飲むという経験をした。綿密な協力が実を結んで、1990年に『新宗教事典』(弘文堂)が刊行された。

 編集に際してはずいぶん多くの教団を訪問して、面談調査を重ねた。今はとてもやれないような気がするが、飛び入りの調査も数多く行なった。電話帳で宗教団体らしい施設を探し、2~3人でチームを組んで訪問するというやり方もした。当然門前払いを食ったこともある。いきなり教祖と面談するという機会を得たこともあった。教祖の自宅に招かれて体験談を話してもらったこともある。そこで聞いた話のほとんどは、自分の記憶の中にとどめるだけにしたが、そうした教祖たちの体験談、あるいは信者たちの入信にまつわる話は、宗教が人間をどう変えるかという根本的な問へといざなわずにはおかなかった。偽らざる体験の吐露なのか、研究者用に多少なりともアレンジされた話なのかも、なんとなく区別できるようになってきた。

 信者たちの入信動機や入信後の変化についての聞き取りを重ねると、宗教が人を大きく変えるのだということとともに、ある人との出会いが決定的な意味をもつのだということを強く実感した。教えに納得したとか、病気が治ったからという入信理由はよく言われる。だが、誰にそれを言われたかである。

 

宗教教育への関心の芽生え

 『新宗教事典』が刊行の運びになって肩の荷が下りかけた頃、急に気になってきたことがある。日本の教育における宗教文化の継承の現状である。人は人との出会いの中で宗教の世界へといざなわれる。教祖が与える影響の大きさは、新宗教教団の調査でよくわかった。イエスやブッダがどのようにして多くの弟子を得たのかという、長く抱いていた疑問に少し手がかりが得られた気がした。ブッダは45年にわたって教えを説いたとされるが、イエスはたかだか2年余だったとされる。宗教の教祖には短期間に多くの人に影響を与えた人もいれば、数十年にわたって教えを説いた人もいる。教祖が教えた時間でみれば長い短いがある。しかし信者一人ひとりからすると、教祖との出会いは必ずしも長い時間が必要になるわけではない。短い出会いでもその後の生涯に大きな影響を与えうる。

 では学校における宗教教育はどれほどの影響力をもつものであろうか。日本には多くの宗教系の学校がある。そこではどんな教育が行われ、何が伝えられているのか。現在の日本の教育は日本人の宗教観や宗教理解にどれほどの影響をもっているのだろうかという問がふつふつと沸いてきた。そのときまでに宗教教育の目的とか理念についての研究はそれなりにあったが、実際の教育現場で調べた上で論じているものは、思いのほか少ないことにも気づいていた。これは取り組まなければならない課題だという思いが心を占めた。『新宗教事典』が完成してすぐ1990年度に、國學院大學日本文化研究所の新しいプロジェクトとして、宗教教育をテーマとした調査・研究をスタートさせた。振り返ってみるなら、回心のような劇的な変化ではなく、むしろ文化的継承物として、人の心をからめとるものによる影響を見ていくことに足を踏み出したのである。

 こうして始まったプロジェクトでは、基本的資料の収集や、学生へのアンケート調査と並行して、学校訪問を行なった。メンバーが平均3~4名くらいのチームとなって、キリスト教系、仏教系、神道系の合わせて数十校の小学校、中学校、高校に、北は北海道から南は沖縄まで足を運んだ。宗教の科目を担当している教師に面談し、宗教行事を観察し、ときに生徒たちの話も聞いた。どの学校でも丁寧に対処してもらい、新宗教教団の調査のときのような緊張感はあまり抱かなかった。

 

薄い影響へのかすかな期待

 調査を重ねるうち、宗教の時間で話されることや宗教行事への参加が、生徒たちにどの程度の影響を与えているのかが少しずつ分かってきた。宗教教育の効果は乏しいのでは、という感じをもつこともあった。ある学校では生徒の大半は寝ていた。体育館で行なわれる宗教行事の最中、ざわつきが多かったこともあった。生徒への聞き取りで、「宗教の先生は言うこととやることが違う。人に親切にしなさいと言いながら、あの先生はとても意地が悪い」とこっそり話してくれることもあった。

 教師の側も受験に関係ない科目なので、生徒たちが真剣にならないことを感じていたようだ。ある程度それは仕方ないと思っていたのであろう。では宗教の時間を設けることや宗教行事に参加させることは無駄なのであろうか。そうは思えなかった。新宗教の教祖は核心となることを集中的に話す。人びとの心にその話は食い入る。しかし宗教担当の教師は生徒をその宗教に引き入れることを目的としているわけではない。稀にはそれに近いスタンスも目にはしたが。教えたことがいつかどこかで役に立つかもしれない、そういう広い視点も感じた。 

 考えてみれば、大学の講義も似たようなところがある。聴講している学生の中に、将来研究者になることを目指している学生はほとんどいない。宗教学の話をしても、どれほど身近な問題として受け止めてもらえるか分からない。学生個々人がもっている宗教への知識も非常な違いがある。どんなことに関心をもっているかも分からない。だから毎回の講義への反応を手がかりに、少しずつ修正していく。ときには砂地に水を注ぐような思いにかられることもあった。

 それでも学生のうちの誰かが、自分が説明した考え方、紹介した事例から、何かを感じ取ってくれればそれでいいという思いはずっと抱いていた。行き詰まっていた考えを切り替える助けになったという意味のことを、のちに伝えてくれる学生もときおりいたりした。それはそれで嬉しいことである。中学や高校で宗教を担当していた教師の中にも、これに近い思いの人がいたに違いないと勝手に推測している。

 

「ねじれた認知フレーム」への気づき

 宗教教育プロジェクトを開始する前から分かっていたのは、宗教系の学校の中ではキリスト教系が多いという点である。プロジェクトでは小学校から大学まで、しらみつぶしに宗教系の学校の所在地や関係する宗教を調べた。その結果、1990年代前半の時点で900余りあった宗教系の学校のうち、ほぼ3分の2がキリスト教系であると分かった。キリスト教系が多くなった背景は非常に興味深い。江戸時代には儒学を教える藩校が数多くあり、僧侶による寺子屋や僧侶養成のための機関(学林など)も多かったのに、明治以降の教育において影響力を強めたのはキリスト教系の学校であった。その一つの大きな理由は、キリスト教系の学校では、将来宗教家になる人ではなく一般の人々を教える対象の中心に据えたことにある。

 しかし、これによって、宗教教育を通しての宗教文化の継承の問題は、近代日本では少し複雑な様相を示した。『グローバル化時代の宗教文化教育』の中では、これを「ねじれた認知フレーム」として論じた。地域社会で無意識的に継承されてきた宗教文化と、キリスト教系の学校で伝えようとした宗教文化は、共通部分が多いが一部が齟齬する。多文化社会であれば、そんなことはよくあるが、日本社会はそうしたことに馴染んでいなかった。

 宗教教育の現場で起こっていることを理解するには、さほど自覚されないままに文化の中に継承されている観念や思考様式、行動形態などがどんな影響力をもっているかに細かい注意を払うことが必要になる。では具体的に何に着眼していったらいいのか。こうしたことに関して、まったく異なった分野で刺激的な研究が広がっていた。ただその研究が急速に深まっていた1990年代は、ちょうど宗教教育の現地調査に力を入れていた時期であったので、これに気付くのが少し遅れてしまった。

Copyright © 2020 KOUBUNDOU Publishers Inc.All Rights Reserved.