宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第5回 デジタル化の波の下にあるもの

突然のZoom時代

 2019年末の段階で、2020年度の大学の講義の大半がZoomを通して行なわれるなど、誰が予想したであろうか。新型コロナウイルスの感染症が拡大し始めても、教育の場にこのような影響をもたらすとまで考えが至らなかった人もいたようだが、事態はあれよあれよという間に急展開した。むろんオンラインの情報交換の度合いは急速に高まってはいた。ビジネスの場でオンライン会議はそこそこ広がっていたことは耳にしていた。また自分が担当している大学院のゼミで、2年ほど前、英国在住の学生にスカイプを使って参加してもらったこともあった。かろうじて両国の時差を克服できて、「便利な時代になったね」などと学生と言い合った。

 それが今や多くの大学でキャンパスから教員と学生の姿が消え、授業はパソコンの画面に移動した。Zoomの他にもSlack、Teamsなどオンライン会議用のソフトが多くあるが、対面授業の歴史がかくも簡単に塗り替えられるのは、ちょっとした衝撃であった。しかしよく考えてみれば、コンピュータとインターネットの普及は、こうした仕組みを可能にするインフラをしっかり作っていたということである。となれば、教育に関わる人間はそれを認識し、そこで新たに可能になったことと、失われてしまうかもしれないことを、じっくりと観察していかなければならない。

 対面で講義やゼミを行なっていたときは、それをどれほど意識しているかは別として、五感が環境を感知するなかに互いの情報が交換されていたのである。Zoomなどで交換できる情報は今のところ視覚と聴覚を通して入ってくるだけである。日常的にわれわれが情報を得るときにも大半は視覚と聴覚に依存しているので、それほど情報量は少なくなったような気はしないのだろう。だが、ここに一つの落とし穴が潜む可能性がある。

 オンラインで授業が行なえるということは、情報の伝達手段がデジタル化されていたからである。デジタルネイティブという言葉は21世紀になって広まった。ウィキペディアが登場すると、大学では教員よりも学生の方が利用し始めるスピードが早かった。デジタルネイティブが増えつつあったから当然である。2000年代前半には、学生がウィキペディアをコピーして提出したレポートを教員側が見破れないという例がよくあった。同じ大学の教員に似たような内容のレポートがいやに多いと首をひねっていた人がいたので、ウィキペディアの存在を教えたら、腑に落ちたという顔をしていた。デジタル情報へのアクセス能力では教員と学生では、しばしば学生側が優勢であった。

 

パワーポイントで実感したデジタル化

 デジタル化は対処法を知れば、基本的には授業の準備を楽にしてくれることが多かった。1980年代からワープロを使いはじめて、講義のノート作成がずいぶん楽になったのを覚えている。同じ科目でも毎年少しずつ内容を変えていたが、けっこう手間がかかる。万年ノートの先生がいるという噂は、学生時代によく耳にしたが、授業をやる側になるとその気持ちも少し分かるような気がした。それがワープロの登場で、講義ノートの作成がとても楽になった。新しい情報を加えることや訂正が簡単にできる。

 だがそうなっても、教室で配布する参考資料は依然として手作りのことが多かった。年表のようなものは印刷すればいいが、たとえば宗教がどう伝播したかの経路を地図に書き込んで説明するような場合は、鉛筆で書き込む。少し新しい情報が加わるだけで、また別の図を作成しなければならない。嫌ではなかったが、時間がけっこうかかった。

 その作業をとても楽にしてくれたのがパワーポイントである。図の作成もいろいろなパーツの組み合わせでできる。写真と図の組み合わせも自由自在である。情報が更新されても作り直しにそう時間がかからない。動きも加えられるから、非常に便利である。自分がいつから授業にパワーポイントを使うようになったか調べてみたら、2004年度からであった。ずいぶん前から使っていたような気になっていたが、まだ20年経っていなかった。

 非常にカラフルな図を作ることができるし、音声や動画もリンクさせることができる。1980年代は8ミリ映写機を教室に持ち込んで映していたり、スライドを一枚一枚ケースに入れて教室にもっていっていったりしていたが、そんな時代が嘘のようである。

 デジタル時代は教育の方法を劇的に変えた。提供できる情報量は飛躍的に増えた。しかし何事にもトレードオフ的なことはある。便利さの反面でともすれば失われがちのものがある。学生の姿を眺めながら話す時間が減り、それがパソコンの画面を眺める時間に回された。それは致し方がない。また言葉によって伝えていたものを画像や動画を介して伝えると、情報量は増えるが言葉にこめていた気持ちはどうしても弱まりがちになる。何を伝えたくて講義をしているのか、伝える内容が多くなった分、一つひとつの言葉にこめていた思いは弱くなることがあったかもしれない。

 

宗教意識調査

 多くの大学の学生に対する宗教意識調査を開始したのは1990年代である。毎回数千人の学生の回答を集計し、報告書を出したが、それが多額の費用をかけなくてもできるようになったのは、デジタル化時代が到来していたからである。

 1980年前後にハワイやカリフォルニアで日系人の宗教に関する共同調査に参加したときもアンケート調査を行なったが、数百人分の回答を集計するのに、ひどく手間がかかった。大型コンピュータを持っている機関に集計を依頼したが、入力の前準備として、回答結果を一つずつカードに手書きしなければならなかった。こんな状況であれば数千人の学生の意識調査などやろうとは思わなかったかもしれないが、1990年代はデジタル化の波が大学教育にも押し寄せつつあった。集計用のコンピュータソフトもあったので、國學院大學日本文化研究所の宗教教育のプロジェクトで大規模な意識調査をしようという気持ちになった。1992年の調査は32の大学で実施し、約4千人の学生から回答が集まった。

 これを足場に1995年から日本文化研究所と「宗教と社会」学会のプロジェクトが合同で毎年学生の宗教意識調査を実施することにした。このときはDBProというけっこう手軽に使えるデータベースソフトが開発されており、以後これを用いて入力し分析した。学生の宗教意識調査は2001年以降5年に2回というペースになり、2015年まで12回実施された。毎回報告書を作成し、12回分をまとめたものが2017年に、そしてそれを分析したものが2018年に刊行された。オンラインで公開されているので、それぞれ下記のURLから自由にダウンロードできる。

https://www.kokugakuin.ac.jp/research/oard/ijcc/ijcc-publications/p01

https://www.kokugakuin.ac.jp/research/oard/ijcc/ijcc-publications/2017satra

 データベースソフト、あるいは集計ソフトを用い、数千人規模のアンケート調査の集計ができるようになったのは、デジタル化の恩恵である。それまで新聞社などが行なった調査結果を参照するしかなかった意識調査が、データに多少の偏りがあっても、かなり細かなところまで質問できるようになった。

 

何が見えたのか

 それまで若い世代の宗教意識とか宗教観といったことは、論者の印象や身の回りの事象の観察などで語られることが少なくなかった。若者の間で宗教ブームだとか、逆に宗教離れだとか、何に基づいて言っているのかよく分からない決まり文句が、メディアに頻繁に登場することがあった。

 こうして20年にわたって細かな質問項目を設けた調査を続けてみると、若い世代の宗教に対する意識が短期間に大きく変わるわけでもなく、宗教的な習俗が急速に薄れているわけでもないことが見えてきた。しかし中には仏壇や神棚のように目に見えて減少したものもある。変わるものと変わらないものを見出せて、調査をやった甲斐があると思った。

 そうして基本的な動向が確認されると何が見えないのかが気になってきた。デジタル時代は多くの情報を短時間で集め、その結果をまた短時間で集計することを可能にした。同時代的に何が起こっているのか、人々はそれをどう受け止めているのか。こうしたことを考えるツールはどんどん便利になっていくに違いない。アンケートもgoogleフォームなどを使うと、得られた回答の集計が各段に便利になる。

 こうした調査ができるようになると、デジタル化の弱点も考えていかねばならない。デジタルの語源はラテン語のdigitusで、指の意味である。指で数えられる、つまり離散的な値がデジタルである。離散的とは飛び飛びで、連続的でないという意味だが、間のものを置かないということである。たとえば「ハイ」と答えれば1、「イイエ」と答えれば0とすると、「ハイ」でも「イイエ」でもない答えの行き場がなくなる。「どちらでもない」を2としても、「ハイ」が9割で「イイエ」が1割という気分の答えがはじかれる。こうしたとき回答者はどこかに無理やりあるいは適当に回答したりするのだろう。

 しかし人生においては、ある事柄への意見なり態度なりが、イエスでもノーでもなく、その中間のどこかというのは珍しくない。デジタルで示された結果が現状を正しく反映していると考えるのと、デジタルで示された結果を一応認識しながら、その背後にうごめくものに想像をめぐらすことを怠らないというのは大きな違いである。

 調査などしなくても本質は分かると洞察力を誇る人がいるが、それは「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の世界に近い。デジタルデータを踏まえながら、それがひそかに語っていることや、その背後に隠れていることに思い致すことが、とりわけ宗教研究にとっては大事である。変化しているのは何か。どれほどの力を伴っているのか。それははっきり観察できる海の波の下でどれだけの力が働いているのかを考えるのに似ている。波は表面だけの動きを伝えているのか、それともその下に大きな水量が一緒に動いているのか。津波が怖いのは後者だからである。

 

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