宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第1回 問い続け、考え続けたいこと

新型コロナウイルスに直面して

 3月下旬にAFP(フランス通信社)がイタリア北部の町ジュッサーノにあるカトリック教会のミサの様子を配信した。神父が会衆席に向かってミサを執り行う姿を背後から撮った写真であるが、席にあったのは信者たちの姿ではなく、彼らが自撮りした顔写真だった。イタリアで新型コロナウイルス感染による死者が1か月で5,000人を越していたという時期の出来事である。

 そのときは初めて見る光景でけっこうインパクトがあった。だが、その後世界各地で、また日本国内でも、教会や寺院などでさまざまなオンライン儀礼が工夫されるようになった。遠隔祈祷、オンライン法事、オンライン瞑想といった言葉も用いられるようになった。大学ではZoomなどを用いた遠隔授業があっという間に一般化して、伝統を重んじる宗教界でも、さまざまな試みをせざるを得ない事態になってきた。

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を引き起こしているウイルスは、けっこう厄介な性格をもっていると感染症の専門家たちは指摘している。ヒトに感染するコロナウイルスとしては7番目になり、SARS-CoV-2というのがこのウイルスに与えられた名称である。2012年に中東で起こったマーズ(MERS)に比べると致死率は低いが、感染しても発症しない人がけっこういることや、発症する前に伝染するといった性格が、対処法を難しくさせているという。

 ヒトとウイルスとの闘いでは、ウイルスの方が圧倒的に有利とされる。その理由の一つは、遺伝子の変異のスピードの違いである。人のDNAは一生同じで、その時間の幅は平均で数十年である。これに対しウイルスのDNAもしくはRNAの変異の速度は桁違いである。C型肝炎ウイルスなどは脊椎動物の100万倍の速さで変異するとした研究もある。ワクチンや免疫力は一定の効果があるが、人を苦しめるウイルスという存在が消えてなくなることはない。敢えて言えば、ヒトを感染ルートとするウイルスは人類が絶滅したら絶滅する。それでも他の生き物を宿主にする変異が起これば、遺伝子は再生産されていく。

 

見えないものへの恐怖

 感染症の専門家たちが感じる厄介さとは別に、多くの人たちは見えないものに対して抱く恐怖心に取りつかれている。細菌もウイルスも肉眼ではまったく見えない。光学顕微鏡ではとらえられないウイルスの姿がしだいに明らかになるのは、1931年の電子顕微鏡の発明以降のことである。電子顕微鏡を覗く機会など普通はない多くの人たちにとって、ウイルスの姿は各自の想像力によって表象される。球体の図として示されると、スパイクと呼ばれる表面の突起は、いかにも凶悪に見えてくる。

 そしてウイルスそのものより、感染した人、感染しているかもしれない人、さらには感染の予防をしていないように見える人への恐怖、不安、怒りが増大してくる。これはウイルスの感染とは異なった次元の非常に厄介な社会問題を引き起こしている。未知のものを警戒し、ときに強い不安を抱くのは人類の遺伝子に埋め込まれた反応である。生き延びるためには、何か危険なものを察知すれば、避けるのは当たり前である。ただ視覚をはじめ、五感で捉えられるものであれば、対処法は文化的、社会的にある程度蓄積されていることが多く、それらをそれなりに頼りにできる。

 細菌やウイルス、あるいは放射線といった五感でまったくとらえないものへの恐怖に関しての、文化的、社会的対応はとても脆弱である。それでも、目では捉えられない対象の存在を、病に罹った人の姿から感知し、さまざまな文化的対処法をつくりあげてきた。宗教的対応と呼ぶべきものも古くからある。もっともそれらを今日の意味での宗教的対応として考えると適切ではないだろう。科学と宗教の区分は近代の産物である。たとえば平安時代には鎮花祭は国家的に行われた祭祀であった。花が飛散する春には疫神も四方に分散するという考えのもとに、これを防ぐための祭祀が神祇官の関与のもとに行われた。その時代の社会的知恵が動員されているとみなすべきである。

 ウイルスとの果てしない闘いは、主に医学に関わる人にとっての課題であるが、ウイルスをめぐる人間の心の問題や社会の反応は、宗教を研究する人にとっても大きな課題となる。というのも、ここに差別や、排除や、暴力という心理的・社会的次元の厄介な現象が生じるからである。そこには文化に蓄積されてきている「出来事を理解するためのフレーム」も関わっている。

 

宗教を信じることが暴走しないために

 ある宗教を信じることが、こうした厄介な事態に対するいわば「抗体」として働けばいいのであるが、かえって事態を悪化させる方向に作用することもある。今回のコロナ問題で、われわれの免疫機構におけるサイトカインストームという現象が注目されるようになった。これは免疫機構におけるいわば暴走現象である。自らの細胞を攻撃したり、ある抗原への攻撃が過度に集中して、他の抗原への備えがおろそかになったりする。宗教的理念の場合であっても、本来は人々の平和や幸せを祈るためのものが暴走して、他者の攻撃として作用することが少なくないことは歴史が証明済みである。

 グローバル化が進む時代に、偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面は減少の方向へ向かってほしいと願う。そのためにはどんなことが必要になってくるか。異なる宗教文化についての基礎的な素養を身に付け、それを理解しようとする心を育てることは、その第一歩と考える。この総論的な言い方にはあまり抵抗はないだろう。だが、個別の局面に入ると、それぞれが一筋縄ではいかない問題を孕むことが分かってくる。唯一の正答というものがない状況が広がっている。

 それでも問い続け、考え続けていくべきテーマである。具体的な場面ではどんな事情が姿をあらわすのか。これまでの体験に基づいて少し振り返ってみたい。

 

 

Copyright © 2020 KOUBUNDOU Publishers Inc.All Rights Reserved.