宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第15回 故意に乱された心の行方

迫力なきイニシエーション

 宗教学や人類学などでは、成人式や入社儀礼などをイニシエーションと総称する。古い集団から新しい集団への移行に伴うもので通過儀礼とも言う。元の状態から新しい状態への移行には危険が伴うから、対処する手段が必要である。また移行する資格があるかどうかを見極める儀礼もある。成人儀礼にはそうした意味合いのものがある。バンジージャンプはメラネシアのバヌアツ共和国にあるペンテコステ島の成人式の儀礼が元とされている。大人になるための勇気が求められている。アフリカのマサイ族ではかつてライオン狩りが成人式であった。勇気と団結力が求められる。もっとも最近は野生動物保護が重視されるようになり、2012年以後マサイオリンピックに変わった。イニシエーションが持つ機能は1つではなかろうが、バンジージャンプやライオン狩りには、恐れの克服という要素が明らかである。失敗したら死ぬというのは恐怖の最たるものである。イニシエーションの際の恐怖との向かい合いは一時的でも、それを克服すれば自信がつき、社会の承認が得られる。

 入学式や入社式も一種のイニシエーションだと解釈される。しかし、この現代のイニシエーションは概して退屈である。式辞は型通りのものが多く、たいていの人が早く終わらないかと思いながら、顔だけは一応神妙にしているのはよく見かける光景である。大人になるとつまらない話でも姿勢を正して静かに聞いていなければならないことがあるのだ、というメッセージが隠れているのかと勘繰りたくなるような式典まである。

 多くの人がそうであろうが、私もこの手の形式張った儀礼が学生時代からとても苦手であった。ただ我慢して過ごす場合が多かったように記憶する。なのに高校の卒業式で、3年生を代表して答辞を読まないかと担任の教師から言われた。学校側でだいたいを用意したような型通りのものを読むのなら断ろうと思って、自分で好きな文章にしていいならやりますと答えた。担任の教師は事も無げに、好きに書いていいよと言った。あっさりそう言われたので断るわけにはいかなくなった。

 定番であった桜がどうこうとか、懐かしい校舎はとかいった表現は使わなかった。校舎の描写はありのままにした。そして下級生に対しては、「あなたたちは搗き立ての餅です」と偉そうなことを言った。心がけ次第でどんな風にでも変わっていける年頃だと励ますつもりだった。事前に教師に内容を見せないでしゃべったので、何か言われるかと思ったが、複数の教師が「良かったよ」と言ってくれた。何人かの生徒はすすり泣いていたと聞いた。自分が思っていることを率直に伝えると、全体の雰囲気は変わるのだと思った。これに近いことを大学で教鞭をとるようになって、次第に感じるようになった。学説の説明はどうしても教科書的になる。ところが自分が実際に調査した話を交えると、臨場感が出てくる。調査ではいろいろな場面に遭遇する。驚くこと、不可解に思うこと、共感を抱くことなど、心が大きく動かされるような体験が多々ある。その体験を思い起こしながら話すと、宗教社会学の立場や視点について解説しているつもりでも、無意識のうちに記憶から蘇る情動がある。聞いている学生の中にもそれを感じ取る人がいるのだろう。

 

宗教者の語り

 東京大学文学部の助手時代に、日本女子大学で非常勤講師をやることになった。どういうわけか宗教学がとても人気で、宗教学研究室の先輩数人も同じ一般教養科目の宗教学の非常勤講師をしていた。そこで一緒に教科書を作ることになった。それが『宗教学プレリュード』(学術図書出版社、1979年)である。ちょっと気取った名前にした。そのときの先輩の一人は牧師でもあった。講義がとても上手なことで有名で、毎年聴講する学生が教室にあふれていたようである。教科書作成の編集会議の折り、大学での講義についてその先輩が口にした言葉はとても印象に残っている。「大学の先生は面白くない講義をしても、学生は単位が欲しいから聞く。だけど教会の信者たちは牧師の話が面白くなかったら来なくなる。だから話を工夫しなくてはならない。」なるほどと思い、講義は常に聞き手の立場を想像するようにした。何に関心があるのか、どう話すと伝わりやすいのか。講義だけでなく、いろいろな儀礼の場でスピーチをしなくてはならないときは、よほどの場合でない限り、形式的な話の仕方はしないように努めることにした。

 この先輩が言ったことは、現代宗教の布教の場に数々接すると、正鵠を射ているという思いが強まった。人の心を動かせない人にとって、宗教家という役はなかなか重そうである。それは宗教の現場は情動や感情が響きあう場だからである。聖書や経典を読んで宗教的な世界に関心を持つ人はいる。そこから自分の生き方に大きな指針を得られる人もいる。座右の書ともできる。だが、同じ聖書や経典を根本教典としていたとしても、そのどの箇所がもっとも重要であるか、本当に伝えなければならないのは何かをめぐっては、教派・宗派ごとの違いがある。教派・宗派ごとに主として伝えられていく語りは多様に分かれていく。その語りが強い力を持つかどうかは、個々の宗教家の肩にかかってくる。

 キリスト教福音派の伝道師である米国のビリ-・グラハムが、1980年に来日して後楽園球場で説教をしたことがあった。ビリ-・グラハムは自らも伝道説教を通して信仰を持った経験をもち、大衆伝道家として大変有名であった。当時ある大学で私の講義を聴いていた一人の学生がキリスト教徒だったようで、「ビリー・グラハム国際大会」をぜひ聞きに来てくださいとチケットをくれたので足を運んだ。人工芝となっていた後楽園球場の内野グランドに説教壇が組まれていた。私は一塁側内野席の上の方で説教を聞き、8ミリカメラも回した。

 ビリ-・グラハムは米国でもヤンキー・スタジアムを借りて説教するなどしたことが知られている。それを聴いて多くの人が回心し、説教が終わるとスタンドからグランド上に降りてきて信仰告白をするという話であった。しかし、この後楽園球場での講演は通訳付きであった。英語で力強く発せられた言葉も、通訳が話すとどうしても勢いがそがれる。それは致し方ない。途切れ途切れとなる言葉は、聴いている人たちの心を揺さぶるという具合にはなりにくかったと思う。講演が終わって、回心した人はグランドに降りて下さいという旨のアナウンスがあって、何百人、ひょっとしたら何千人かの聴衆が降りていった。しかし、人工芝の感触を確かめたいというような雰囲気の人もいて、皆が信仰に目覚めて降りたふうではなかった。後楽園球場が人工芝になったのは1976年だったから、私も人工芝を歩いてみたくて降りていったくちである。

 なぜ言葉は心を動かすのか。少なくとも宗教の教化や布教の場では、その言葉が真実かどうかといった次元では説明がつかない。愛のささやきは感情を動かす。励ましの言葉も感情を動かす。そこに論理性はあまり関係しない。非論理的な言葉を並べても感情を動かせることに悪乗りする人がいる。演説にレトリックを駆使して鷺を烏と言いくるめようとする政治家がいる。よく聞くときわめて非論理的な話であっても、真実だと一部の人に思いこませる語りに長けている。振り込め詐欺など、いくら注意を喚起してもなくなることがない。人が心を動かすのは、基本的に情動や感情の問題だから、理性や論理はせいぜい片隅にたたずむ程度である。

 

アージ理論

 前回のテーマであった情動、感情は、脳の複雑なネットワークに関係しているので、話をきれいに整理することは脳神経科学の専門家でもまだまだ難しそうだ。それでも、少しずつ手がかりが得られている。宗教の教えを説く側も説かれる側も、その最中に自分の脳の中で何が起こっているのか知りようもない。ただ心の動きだけは実感できる。そうして動いた心が安らかさや落ち着きに向かうならいいが、強い恐怖心を植え付けられることもあって、これが前回の最後に触れたカルト問題につながっていく。

 キリスト教では悔い改めの必要が説かれる。悔い改めは救いにつながることになるが、悔い改めないと地獄に落ちるという脅迫めいた言葉を発するグループがある。仏教系の新宗教でも似たような言い方をする団体がある。自分の教団あるいは宗派の教えに従わないと地獄に落ちると断言する。オウム真理教では麻原彰晃が自分の教えに帰依するように、死の恐怖を強調した。「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」と繰り返し説いた。これ自体は真実である。しかし、これがオウム真理教に入信させ、そして離脱できなくするための言葉として選ばれているとなると、いざなわれたその行先に注意を払わなくてはならない。

 宗教に入らなければ地獄に落ちるとか、この国は亡びるという言い方で突き付けられる恐怖は、人によっては深く心に突き刺さる。最初にこのロジックを発明したのは誰であろうか。もちろん分かりはしないが、そうしたロジックが有効になる前提は、人間が言葉によって豊かなイメージを描く能力を持ったことである。同じ言葉から具体的にどのようなイメージを持つかは育った文化的環境によって大きな影響を受ける。自分が死ぬ、人類が滅亡する、そうした言葉を面と向かって発せられると、現実にそのような状況が差し迫っていなくても、心理的に恐怖を感じるようになった。

 理性的、論理的に考えようとする前に、こうした言葉からすぐさま恐怖が沸き起こってくるのは、人間の生物としての側面と、人間文化がもたらした側面の2つが関わっている。ここで参照したいのは、認知心理学者の戸田正直が提唱したアージ理論である。戸田はアージ(urge)を本能に近い意味で用いているが、人間の感情システムと認知システムとの関係を踏まえた興味深い論である。本能という言葉を避けたのは、これが一時期乱用され、科学的概念としてはふさわしくないものになってしまったからという。アージの機能を考えた先駆者としてウィリアム・ジェイムズを挙げている。

 「感情システムと認知システム:アージ理論の立場から」*1という論文で、戸田はとくに「恐れ」について頁を割いているが、そこでの議論は宗教研究でも参照すべきものが含まれている。アージ理論の基本仮定は、感情システムが動物界で種を超えて進化してきた生き延び用のソフトウェアとする点に置かれている。たとえば「恐ろしい」という感情はとりあえず逃走行動をとらせる。これが重要な「生き延び問題解決」機能であり、この感情の機能をアージと呼ぶとしている。ただアージ機能だけで感情は動いていない。自分が置かれた状況を把握する「評価モニター」がある。評価モニターは「認知システム」の援助が必要になる。ここでは外部状況の認知だけでなく身体の状態もまた重要になる。外部状況と内部状況を総合して得られるものを「ムード状態」としている。ムード状態は強度をもった多次元の感情変数とされる。ムード状態が形成されると個人の各サブシステムにフィードバックされ、サブシステムの状態に影響を与える。

 外部状況も内部状況も多様であるから、ムード状態はほぼ無限にあることになる。ただ似たものをまとめることで有限の領域に分割でき、その1つが「恐れの領域」であるとされている。人間のみならず生物にとって恐れは生存にとって必須のムード状態である。布教の場におけるやりとり、さらには宗教文化の伝達の場全般において、恐れがどのような役割を果たしているのかには、とくに現代宗教を研究する立場からすると、きわめて強い関心が生じる。

 戸田のアージ理論は、サイバネティクスの考えも踏まえた非常にダイナミックなものである。宗教の布教の場面に応用してみると、分かりやすくなるかもしれない。恐れに注目して、「この教えに従わないと地獄に落ちる」と宗教家に言われたときの状況を想定してみよう。宗教家自体は恐れをもたらす対象ではない。しかし地獄に落ちるという言葉は恐れをもたらす。育つ中でそれまで聞いた地獄のイメージが思い浮かぶかもしれない。不幸な死に方をした人が身近にいれば、その人が今どうなっているかが心配になるかもしれない。そうして「地獄に落ちるのを避けたい」というムード状態になれば、その目的に沿うような言葉に反応したり、行動を選びやすくなるだろう。地獄という言葉にそれまでより強い反応を示すことになる。

 

情動に関わる脳のネットワーク

 結果的に恐れとして感じられる情動であっても、そのときに脳内で働いているニューロンのネットワークはおそろしく複雑なようだ。恐れといっても千差万別である。虫が怖い、蛇が怖いという類や、あの人が怖い、人前で話すのが怖い、失敗するのが怖い、皆から無視されるのが怖い、等々。それぞれが異なったニューロンのネットワークから生じる反応である。どんな相手、動作、言葉、動物、情景などといったものに恐怖を覚えるかは人によって大きく異なる。犬を見て近寄ろうとする人もいれば、逃げ腰になる人もいる。花火を見て歓声を上げる人もいれば、その爆音に怯えて身をすくめる人もいる。こうしたことは人ごとにそれまで重ねてきた経験が違うから起こる。

 ニューロンのネットワークにおける複雑な情報交換の結果、それぞれの情動が瞬時に起こる。その仕組みをすっかり捉えることはできないにしても、おおよその動きを明らかにしようとする研究は増えてきている。認知心理学者の梅田聡は「情動を生み出す脳神経基盤と自律神経機能」*2と題された講演において、情動に関わる脳のネットワークとして、次の5つを挙げている。デフォルトモードネットワーク、セイリエンスネットワーク、メンタライジングネットワーク、ミラーニューロンネットワーク、遂行機能ネットワークである。興味深いのでこの考えを参考にしながら、日常的に起こっている情動の働きがどんなに複雑かをちょっと確認してみよう。

 椅子に腰かけ、とくに何にもするわけでもなく、傍目にはボーッとしているように見える時でも、情動に関わるネットワークは作動している。安静状態でも働いている脳の領域が複数あり、これがデフォルトモードネットワークになる。前頭葉の後部にいくつかその領域があるとされる。

 環境に突然大きな変化が生じればすぐ心は動く。ゆっくりくつろいでいたとき、近くでガチャンと大きな音がすればびっくりする。おなかが急に痛み出しても、どうしたのかと不安になる。そのようなとき、顕著に反応するのがセイリエンス(salience)ネットワークと呼ばれる領域である。顕在性ネットワークと表現されることもある。興味深いのは、このネットワークに側頭葉と頭頂葉下部を分ける外側溝の中にある島皮質[とうひしつ]が関連している点である。島皮質は身体的痛みにも精神的痛みにも反応することが知られるようになった。また親しい他者の痛みにも、自分の痛みのように反応する。

 他者と向かい合っているとき情動は細かく変化する。例えば恋人と一緒にいるとき、学校や会社での面接に臨んだとき、相手の一挙手一投足に心が動く。相手がどうしてそのような言葉を発したのか、その動作は何を意味するのか、細かく観察する気持ちが起ころう。このとき活発になるのがメンタライジングネットワークである。このメンタライジングネットワークは「心の理論」と深く結びついている。人と向かい合うと、どんな意識的にやめようと思っても相手の心理を読み取ろうとする心が動く。目を閉じても声が聞こえれば、その言葉から相手の心を読み取ろうとする。座禅会に参加し、目を閉じ、音に惑わされないようにしていても、肩に警策が振り下ろされたなら、なぜ監視役の僧がそうしたのか考えて心が動く。

 相手が強い感情をあらわしたときに、それに即応して自分にも同じような感情が起こることがある。子どもを亡くして泣き崩れる知り合いに接して、もらい泣きをする。梅干を食べた相手が酸っぱそうな顔をするのを見て、自分も唾が出てしまう。このとき作動するのがミラーニューロンネットワークである。

 情動は行動とつながる。いろいろ沸き起こる感情を制御し、過去の記憶とも照らし合わせ、その情動にふさわしい行動を選ぶ総合的判断が必要になる。遂行機能ネットワーク(executive function network)がそれに関わると考えられる。前頭前野などの領域が含まれる。同じ1つの出来事に直面しても、その場に10人がいれば10通りの異なった情動が働く。仮に喜びのシーンとまとめられても、一人ひとりの細かな情動には差がある。喜び一色の人もいれば、悲喜こもごもの人もいるかもしれない。

 このようにネットワークが大別されると、心の動きへの整理が少しできそうであるが、実際の関係は複雑きわまりない。1つのニューロンから平均で約1万と推定されるシナプスが、他のニューロンとつながっているのが脳である。一瞬一瞬に脳内で伝達される情報量は無限大と表現したくなるほどである。情動が無数にあると言われるのはむべなるかなである。

 

故意にある情動へ導く人たち

 恐れという情動・感情が宗教の布教や教化の場面で果たしている役割は実に大きい。脳神経についての研究が20世紀末から飛躍的に発展したが、宗教の現場では、経験的に人の行動や言語などがどのように相手に影響を与えるかが古代から知られていたに違いない。理論的な背景は分からずとも、結果的に最近の研究で明らかにされつつある脳の働きの特徴を踏まえたかのような実践がなされてきたのが分かる。どのような話をすれば人は神や仏や死後の世界に心を向けるか。どのような設備を備えた宗教施設が、人を信仰に導くには適切かなど。

 先に述べた大学院の先輩はむろん脳神経科学から知見を得たわけではなく、どのような話し方が人の心を惹きつけるかを教会での信者との向かい合いから体得していたのであろう。むろん牧師でも話が下手な人はいるから、自分の置かれた環境から何を学ぶかは人ごとに異なる。話はうまくなくても、信者が深い悩みを抱えているかどうかを敏感に読み取れる牧師もいるであろう。信者の悩みの内容からその人の環境の変化を察知できる牧師もいるだろう。

 デフォルトネットワークの話は前回触れたダマシオのホメオスタシスの考えともつながる。それが乱されたとき、セイリエンスネットワークが直ちに作動するのは、無意識的なホメオスタシスの維持の働きとも言える。人間を取り巻く環境は瞬時たりとも同じではないから、人間の心は動かずにはいられない。そこで元の状態に戻そうとする力が動く。これは平常心、中道、中庸という概念が、宗教の教義の枠を超えて、倫理的あるいは道徳的に重要なものとして、とりわけ東洋の宗教文化で重視されてきたことの背景にあると考えられる。

 ところが現代社会でなされている宗教活動の中には、比較的平静に毎日の生活を送っている人や、とくに強い不安を抱いているわけでもない人に対しても、その状態を故意に乱す手法がまま見られる。真理に気づかせる、誤りに気づかせる、あるいは生きる本当の意味を教える、そうした目的のためには、相手の心に衝撃を与えるやり方もときに有効であることは、宗教の現場では気づかれていたに違いない。対機説法*3を拡大解釈するなら、故意に乱すやり方も対機説法的に相手の機根を見越した上でのものと考えられなくもない。だがどのような相手であっても、同じようなやり方で恐怖を生じさせて入信へと導こうとする。さらにそのやり方に気付いて入信したことを悔いる人が続出する。こうなると、宗教文化が歴史的に継承してきた布教の方法の1つと受け止めて済ますわけにもいかなくなる。少なくとも日本におけるカルト問題は、意図的かつ組織的に恐怖を相手の心に植え付けて信者獲得の手段とする団体の活動と少なからず関連している。

 誰もが避けたい恐怖、とりわけ死や死に関連する恐怖をさまざまに散りばめる。それにより恐れは瞬時に作りあげることができる。仮に初対面の人に「このままでは、あなたは近いうちに恐ろしいことに見舞われますよ」と言われてまったく心を動かされない人は少ないはずだ。天国に行くための話には関心を示さない人でも、地獄に落ちるぞという話を突き付けられると大なり小なり動揺する。これは2002年にノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンらのプロスペクト理論と一脈通じるところがある。人は得が見込まれるときと、損が見込まれるときとで異なった選択基準を持つという考えである。プロスペクト理論にはいずれ触れたいと思っている。

 バンジージャンプやライオン狩りのような成人儀礼は、実際に命の危険と背中合わせの恐怖体験である。これらは実は人生においていつ突き付けられか分からない死の恐怖に対するワクチンのような機能を持っていたのかもしれない。仮にそうだとしても、現代日本で参考にできるわけもない。カルト問題への対処となるなら、やはり宗教情報リテラシーの具体的なやり方を考えるのがもっとも基本的な方法と考える。

 

※次回は10/13(水)更新予定です。

*1:『認知心理学研究』3-2、日本認知心理学会、2006年。

*2:『自律神経』56-2、日本自律神経学会、2019年。

*3:対機説法とはブッダが用いた説法の仕方とされ、相手の機根(能力や資質)に応じてそれにふさわしい方法をとること。

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