宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第19回 事前知識の影響を受けた脳の推定が道を迷わせることもある

八方目はっぽうもく

 大学時代に所属した少林寺拳法部では剛法、柔法、整法の基本的な技を教わった。剛法とは突きや蹴りなどであり、柔法とは体の構造や急所を踏まえて相手を制する方法である。整法はツボを知り経脈を整える方法であるが、按摩のようなつもりでやっていた部員もいた。これとともに、相手と向き合ったときの構えについても教わった。その1つに「八方目」があった。相手と対するとき、たとえば相手が右手でフェイントをかけると、左手の動きや足の動きへの注意がおろそかになる。そこで常に体全体の動きに対応できるように、どこかに視線を集中させるのではなく、相手の目を見つつも両手両足、首など全体の動きを同時に捉えようとする。相手が手に何か持っていれば、それも捉えるべきものに含まれる。それが八方目である。

 これを鍛える1つの手段として、歩いているとき視線を動かさず視野全体に注意を配るやり方がある。目は通常サッケード(サッカード)という動きをして、絶え間なく視線を動かしてあたりを見回す。歩くときは普段そうやって視覚情報を収集する。しかし、視線を向けていない方向からの突然の危険な兆候を察知するには、八方目がきわめて優れている。今でも時々ターミナル駅を歩くときに八方目となるように努める。八方目の心構えでいると、突然横から速足でやってきた人にぶつかることがまずなくなる。

 人間は対象を細かく精査するときには注意をそこに集中させる。じっと見つめると、見落としていたものが見えてきたり、意外な構造が発見されたりする。ところが闘いの場面ではそのように細部に神経を集中させると、敵が狙っている動きを察知する重要な目的が果たせなくなる。八方目は武術の修練の過程で経験的に編み出されたものだろうが、人間の視覚の非常に複雑な仕組みについて少しずつ分かってくると、これが実は視覚の階層的構造とその統合につながる問題に思えてきた。視覚の階層的構造とは、対象の色、肌理きめなどについての低次の知覚が、その対象の奥行、光と影のあたり具合など、少し高次の知覚へとあがり、最終的には対象が置かれている環境の中での的確な知覚へと至ることを指す。

 八方目は日常の視覚による情報収集の仕方とは異なる。それに抗っているとも言える。それゆえ訓練が必要になる。第16回でも少し触れたが、視覚はいわば錯覚の上に成り立っている。網膜がはっきりと対象をとらえられるのは直径0.35mmほどの中心窩ちゅうしんかと呼ばれる部分であり、ここでは1つの視細胞に対し1つの視神経がつながっている。したがって精度の高い情報が伝わる。網膜の周辺部では1,000の視細胞に対し1つの視神経くらいの割合になる。非常に乏しい解像度である。中心窩でとらえられる対象の範囲はごくわずかで、腕を伸ばしたときの親指ほどの幅をカバーするに過ぎないとされる。緊張しながらサッケードしている校正作業が疲れるわけである。

 しかも色を知覚する錐体細胞も中心部に集中しているので、網膜の周辺部では形も色も満足に捉えていない。にもかかわらず、われわれは目の周りの光景の色や鮮明さが、中心部に映ったものと差はないかのように知覚している。これはサッケードにより集めた情報から推測して知覚をいわば編集している。ある一点に視線をとどめているとき、本当は網膜の周辺はモノクロ情報を得ているが、以前の目の動きでその部分がカラーであることを確かめているので、ずっとカラーの情報が入力されていると脳は自動的に推測する。

 視神経の不平等さを補うのがサッケードであるが、八方目はあえてサッケードをしないようにする。視線を向けた先の色や鮮明さについての精細な情報が得られずとも、全体の動きという情報を優先させる。それは対象がどういう目的をもって動くかを探るためであるから、視覚の階層構造の最終段階で求められることに近くなる。むろん実際に視覚の階層構造が変わるわけではないが、階層構造をわきまえているかのようなところが興味深い。

 

街角で手相の勉強をしていますと声をかけられたら

 対象に注意を払うのは、視覚に限らず自分の置かれている環境を的確に把握するためである。この注意という行為も通常考えられている以上にきわめて複雑な脳内の仕組みからできている。前々回、前回に触れた自由エネルギー原理(FEP)では、脳の事前予測の重要性に着眼している。何かに注意を払うとき、その払い方は、それぞれの人の経験や知識などによって大きく異なる。しかもその経験には意識化されているものだけでなく、無意識に蓄積されているものも含まれる。むしろそちらの方が大きな役割を果たすことがある。

 ターミナル駅の近くを歩いている若い女性が、似たような年頃の女性に声をかけられたとする。この時点で彼女はそれまでの事前予測とは異なる状況に直面したことになる。通常ターミナル駅近くを歩いているとき、人から声をかけられる確率はそう高くない。ただ若い女性だとナンパされることもあるかもしれないから、それを警戒して歩くという人もいるだろう。ときにわざとぶつかってくる人もいるから、急に近づいてくる人がいないか警戒する注意深い人もいるだろう。あるいは道がでこぼこしていないか足元に注意を向ける人もいるだろう。彼女がいくつかのことに注意を払いながら歩いているとすると、それら一つひとつはターミナル駅近くを歩くときに起こるかもしれないことの事前確率を構成する。

 何が起きやすいと考えるかは、彼女の過去の経験や常々注意を払っていることなどによって決まるが、そんな計算を意識して歩いているわけではない。ただ脳は意識しなくても必要な予測はしているとFEPでは考える。たとえばその道がコンクリートででこぼこしていなければ、足元にさほど注意を払わない。すれ違う人が小学生か中学生の集団であると、ナンパへの警戒はしない。

 若い女性がやはり若い女性から突然声をかけられるのはあまり事前予測に入っていないとして、声をかけられた瞬間、脳は次にどのような事前予測をするだろうか。これも過去の経験などによる。よく道を聞かれる人は、また道を聞かれるのかと予測するかもしれない。誰かに間違われたのかという判断もありうる。だがその女性が「私は手相の勉強をしています。無料なのでちょっと手相を見させていただけませんか?」と言ったら、その意図についてどう予測するだろうか。

 このような経験は頻繁に起こるものではないから、いきなり手相をみたいと声をかけられるという事態についての脳の事前予測確率は一般にはかなり低いだろう。街頭で手相を見させてくださいと声をかけるのは、実は宗教の勧誘であるケースがほとんどであることを知っていた人だと、これを予測内容の候補に入れるだろう。そうした知識がなくても、街角で占い師に見てもらうと相場は数千円であると知っている人は、無料というのは少しおかしい、何かの勧誘ではないかと予測するかもしれない。相手の外見や語り口で初対面の人にどう接するかを決めるような人だと、にこやかに語りかける女性の呼びかけに、格別の疑念も持たず応じる姿勢になるかもしれない。

 この連載で幾度か触れた学生への宗教意識調査では、2007年の調査で「手相を見させてください」と声をかけられた経験の有無について質問した。この年の調査では4,306名の有効回答があった。街頭で手相を見せてくださいなどと声をかけられた経験を持つ割合は、男性で22.1%、女性で31.5%であった。声をかけられた人のうち、それが「手相の勉強をしています」という内容であったのは、男性で68.5%、女性で85.1%であった。絶対数でいうと、男性で291名、女性で638名である。学生たちが経験した勧誘の大半は、おそらく特定の教団が組織的に行なっている勧誘方法である。だがそのことを事前知識として持っていた学生はごくわずかと考えられる。

 2005年の調査では少し質問の仕方が異なっていたが、手相などの占いの勧誘を受けたことのある人512名に対し、そのときの対応について質問した。「無視した」が84.6%で最も多かったが、「その場で占ってもらった」という人が11.9%で、「占ってもらったあと、別の場所へ誘われたことがある」と答えた人が1.8%いた。512名うち9名なので少ないとはいえ、こうした声をかけに応じる人が少数だがいることが分かった。

 

事前に推定するときに脳内で起こること

 ベイズ推定モデルに基づくと、事前確率分布(事前知識)と条件付き確率(尤度ゆうど)の2つがないと脳は推定できない。町を歩く人が、どんな人から声をかけられる可能性があるかについての事前知識がまったくない人はまずいない。肝心なのは、こうした場合にどんなことがどんな確率で起こりそうかについて、どの程度知識があるかである。尤度とは歩行中に声をかけられたとき、たとえばそれが宗教の勧誘であると推定される割合である。推定は事前知識によって左右される。そうした勧誘法についてまったく知識がない人にとってその尤度は0である。また知識があっても5割くらいと考える人や1割くらいと考える人など、当然ばらつきは大きい。

 ここで予測していなかったことが起こると、予測誤差はきわめて大きい。サプライズが大きいとも言い換えられる。そこで脳は急いで予測誤差を最小化しようと努める。FEPではその方法は2つある。1つは脳内にあった対象への生成モデルを変えることであり、もう1つは知覚の情報を精緻にすることである。生成モデルを変えるとは行動を変えることでもある。

 ターミナル駅の近くで無料の占いの誘いがあったという状況で考える前に、少し分かりやすい例を出そう。都会に住んでいる人が庭先でいきなり目の前に小動物が現れたとする。その正体を見極めるときに、予測誤差を最小化するために脳はどう反応するか。小動物がいきなり庭先に現れたということはほとんど予測していなかったとする。動物の出現はサプライズが大きい。すぐその正体を明らかにしようと脳内の生成モデルを改変する。庭先に動物などいないというモデルから、何か動物が存在するというモデルに切り替える。同時に庭先に現れうる小動物の候補の確率が無意識のうちに計算される。

 知覚の情報を精緻にするため、その動物の大きさ、色、動き、走る速さなどに注意を払う。たとえば子犬か猫かなどという生成モデルになったとする。その他の可能性があるかどうか、尤度に基づき推測しつつ、その動物から得られる知覚情報にさらに注意を向ける。そのときの脳内のモデルでは、子どものライオンや虎である可能性はたぶん排除されている。そんなことが都会で起きる可能性はゼロではないにしても、ほとんどゼロに近いからである。この2方向からのやりとりがほどなく対象の確定に至る。これは子犬に違いないと判断する。これら一連の脳内の処理はほんの数秒の間、ときには1秒にも満たない間になされる。

 さて、ターミナル駅近くで声をかけられた場合に戻ると、脳内の生成モデルを変え、行動を変えるとは、どのようなことになるか。もし道を聞かれるという事前予測を持っていた人は、実はそうでなく無料の手相への誘いだと分かると、この場の状況についてすぐ別のモデルを探す。手相を無料で見たいという相手が目の前にいるという知覚から、とても親切な人に出会ったとか、何か下心のある人がいるなど、考え得るさまざまな別のモデルを生成する。この場合、繰り返すようだが事前知識が重要である。これまで声をかけられたときに、それがどのような内容であったか、そして今回はどの確率が高いかが計算される。相手から得られる知覚は穏やかな表情かもしれない。なにか機械的に声をかけているような雰囲気が察知されるかもしれない。視覚や聴覚などで得られた知覚信号は、生成モデルの変更に影響する。

 警戒した方がいい相手だとする生成モデルになった場合、「いいです」とその場を離れる行動が生まれ得る。親切そうな人だから少しつきあうべき相手という生成モデルになった場合、自分の手を差し出す選択もあり得る。この場合、その後に起こることについてのモデルがはっきり生成されていないと、相手の誘導で別の場所へと行く人もいるだろう。その段階になって警戒心を抱く人もいるだろう。

 文章にすれば少し長いが、実際はこのプロセスのそれぞれにかかる時間はせいぜい数秒であろう。その間に脳は高速で計算し、ある行動を選択する。

 

判断に介入する感情

 事前知識が重要であるにしても、意思決定には感情が大きく関わる。この点が宗教研究にとってはとりわけ重要になってくる。FEPに基づく議論を展開している乾敏郎は『感情とはそもそも何なのか』*1という書の中で、意思決定にリスクが伴う場合についての脳の働きに言及している。脳の側頭葉と頭頂葉下部を分ける外側溝の中にあるとうと呼ばれる部分がある。島皮質とも言う。感情の動きにとってきわめて重要な働きをする。前部と後部で機能が異なるとされる。オンライン「脳科学辞典」では、前部島の活動はリスクの予測やリスクの予測誤差と相関するとされている。またごく近い将来の差し迫った報酬の期待・可能性に関係したニューロン活動が見つかっているという*2

 乾は意思決定の場面でリスクが高いほど前島(前部島)の活動が高くなるとしている。これが嫌悪感や不安を高める。また、自由エネルギーが減少に向かう、つまりサプライズが減ってゆく(予測誤差が小さくなっていく)と、幸福感や希望が増え、その逆だと不幸という感情や恐れが増える可能性について言及している。このような議論は今後どう展開していくか。確かに、環境と調和していると感じれば幸福感が増すようだし、不調和であると感じれば居心地が悪くなりがちである。自然環境であれ、社会環境であれ同様である。自分は八方目も練習のために時々思い出したようにやっている。八方目というのは知識と修練によって得られた身体の反応であるが、それを発動させるときにはどれほど意識化されているかは分からないにしても感情が作用しているのだろう。常に予期しない出来事にさらされている中での日々の行動が、予想誤差最小化の原理の上にあるというのは体験的にはしっくりくる面がある。

 こうして考えてくると、勧誘の巧みな人は相手が目前の事態に対してどのような予測をしているかを把握し、その予測誤差が小さくなるように、先手を打って会話や態度を変えていくすべを体得した人と言えようか。相手の言うことにすべて頷きながら、しかし自分の目指す結論にもっていく人も同様に思われる。事の善悪に関する議論を除くならば、まずはこのように理解しておくことができる。

 街頭での通りすがりの人に対するきわめて巧みな勧誘が、つまるところ、多額の献金をさせるための最初のステップであったと判明したような場合、一連の行為には多くの批判が寄せられる。この批判は勧誘の巧みさ、つまり相手の予測誤差最小化の心の働きを察知したような巧みさに対してなされているわけではない。それがどのような隠された意図をもってなされたかに基づいている。お布施とか寄付、献金と呼ばれる行為は、宗教一般に見られるものであるが、相手の事情などお構いなしにひたすら高額の金銭を求める行為は、感情面で否定的な反応をもたらす。人間という種がもっているはずの利他的行動、あるいは社会の維持に必要な共生を重んじる態度、そうしたものと相反する行為であると、多くの人が感じるからである。

 ただ事前知識もそうであるが、同じような事態にどういう感情が起こるかも人により異なる。遺伝的要素、育った環境、文化的なフレームなどが複雑に絡むので、結果的に個人差は大きくなる。自分の勧誘行為によって、結果的に相手が教団にすべての預金を献金して困窮したとしても、そのことにさしたる罪悪感を抱かない人も現実にいる。高額の献金をさせられ、後に自分は騙されていたと感じた人が起こした訴訟の資料を見ると、罪悪感とは無縁かと思わせるような人の存在が透けてくる。

 こうした人たちにおいてFEPがどう作動しているのか。相手が困っているという知覚情報は、多少はそうした人の脳にも入力されているはずである。とするなら、自分は良いことをしているのだと解釈したり、あるいは相手の苦難についての認知を打ち消すほどの価値を有する生成モデルがあったりするのかもしれない。倫理的に正しいという判断もまた、その人が育った社会的、文化的環境に大きく影響される。高額な献金を求めた場合、その人が生活に困って苦しむという尤度が低く見積もられているような人であれば、自分の行為を反省する可能性も低い傾向になろう。

 

適応は真実に勝る

 FEPは人間の脳の働きに関する原理である。批判もあるが、あらゆる運動、知覚、思考に適用されるとする*3。ただこれまで扱ってきたカルト問題のように、感情が大きく関わる事象との連関を考えると、人間の犯すミス、陥りがちなバイアスをどこまで説明できるのかという点では、具体的な場面に即した検討を重ねる必要を感じる。視覚に階層構造があり、それぞれの段階で予測と誤差の最小化がなされているとしても、人間は実際よく対象を見間違えるし、錯視の例のようにどうやっても誤った認知をする場合がある。無意識的な推論に意識的な是正ができないことが少なくない。

 無意識的推論のゆえに、FEPに即してカルト問題への対処法を考える作業は、道のりが長そうである。誘われた団体に入信しなかった場合、あるいは疑念を感じて脱会しようとした場合に、恐ろしいことが起こると団体のリーダーや誘った人から脅されることがある。このような言葉は感情を強く刺激する。恐怖を抱かなくてもいいのだと言い聞かせたとしても、なかなか振り払えない。感情をコントロールすることの難しさが覆いかぶさってくる。事前の予測をより正確にしていくために、宗教や宗教文化についての知識なり洞察力なりを養っていく以外に、個人的にはとりあえずの有効な対処法を見出せずにいる。

 FEPは脳の働きを論じるに際して、視覚に関して大きな比重を割いている。ところが、同じく視覚を中心的に論じながらも、脳の働きについて異なった角度から論じ、「適応は真実に勝る」とするFBT定理*4を唱えたのがドナルド・ホフマン(Donald Hoffman)らである。これまたなかなか興味深い考えであり、FEPとは異なる仮説のもとに、知覚や思考などに対する考え方が繰り広げられている。錯視についても興味深い解釈をしている。ホフマンは宗教についてこう述べている。「宗教は、認知神経科学や進化心理学の知見を取り入れた進化する科学になることができ、その日常生活への健全な適用も進化していくことだろう*5。」

 科学と宗教を切り離して考えないという点でドーキンスの立場に与しているが、FEP同様、宗教研究にとって参照しておいた方がいい理論と感じられる。FBT定理は宗教の理解にどう関わるか、次回に少し触れてみたい。

 

※次回は3/9(水)更新予定です。

 

*1:乾敏郎『感情とはそもそも何なのか ―現代科学で読み解く感情のしくみと障害』ミネルヴァ書房、2018年。

*2:島 - 脳科学辞典 (neuroinf.jp) 2022年1月7日閲覧

*3:FEPには批判もある。代表的なものに、もし脳が自由エネルギーを最小化することを目的としているなら、生体は何も刺激を受けない真っ暗な部屋で動かずにいるような状態を志向するのではないかとする考え方がある。これは「暗室問題」と呼ばれている。

*4:FBTはFitness-Beats-Truthの頭文字

*5:ドナルト・ホフマン『世界はありのままに見ることができない ―なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』青土社、2020年、参照。

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