宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第23回 進化する情報ツールで宗教の激しい変容を追いかける

目まぐるしく変わる情報ツール

 宗教にとって情報のやりとりは活動の維持にとっての根幹部分である。情報を交換する手段が変わるなら、布教・教化のあり方もまた、時代とともに変わるのは必然のなりゆきである。20世紀後半、とりわけ1990年代あたりからの情報ツールの変容はすこぶる急速である。この急速な変容が宗教文化がどう伝達され、どう変容し、どう展開するかにもさまざまに影響を与えている。

 個人的な経験を振り返ると、1980年代からの情報ツールの展開の早さには、まさに目眩めくるめく思いであった。用いる情報ツールやその社会での利用のされ方が次々と変わった。論文や著書の執筆、あるいはデータの整理や活用のため、1980年代前半にワープロ専用機、次いで当時マイコン(マイコンピュータ)と呼ばれていたパソコンを使い始めた。1985年に弘文堂から『海を渡った日本宗教』を初の単著として刊行したが、原稿はワープロで提出した。担当の編集者から「ワープロで原稿をもらったのは初めてです」と言われたのを覚えている。その時使用した記憶媒体は、今はお目にかかれない8インチのフロッピーである。

 その後、自分にとってパソコンは研究や教育に欠かせないものとなったが、悩まされたのはコンピュータの機種が絶え間なく変わること、ソフトが次々と新しくなること、記憶媒体が変わってしまうことである。1995年のWINDOWS95の発売で、コンピュータの利用は急速に増えた。21世紀に入ると、人文系の研究者の間でも原稿をワープロで作成するのは次第に当たり前になった。ただ機種やソフト、記憶媒体の変化は絶えず続いているので、情報を蓄積していく上では頭を悩ますことが多い。以前作成したデータを別の形式、媒体に変換する必要が繰り返し生じる。

 記憶媒体は当初フロッピーが主流であった。それも8インチから5インチ、3.5インチと次第に小型になった。記憶容量は増えていったので、それは良かったが、変換のため新たにフロッピードライブを購入しなければならないという手間が生じることがあった。だがその後MO、CD、DVD、USBメモリー、SDカードなどと、ポータブルな外部記憶装置が次々と出てきた。1990年代末にUSB接続という便利な方法ができたので、多様な記憶媒体がUSB接続のドライブさえあれば使用できるようになった。ハードディスク、SSD(ソリッドステートドライブ)なども、USB接続すればどのパソコンの機種にも使えるので便利で、当初からすれば雲泥の差である。

 執筆した原稿の類の保存は、日本ではWORDが主流になったので、doc(docx)形式で保存しておけば長期にわたって参照できる。テキストファイル(txt)形式、リッチテキストファイル(rtf)形式で保存しておけば、機種が違ってもほぼ対応できる。画像もpng形式、jpeg形式などが一般化したので、これで保存しておけばやはり長期にわたり参照したり、再利用したりできる。動画ソフトもだいぶ使いやすくなり、mpeg、mp4などよく使われる保存形式にしておけばこれも汎用性がある。多少画質が落ちるのを我慢すれば他の保存形式へのコンバートも容易である。

 こうした状況になると、研究者も情報発信のあり方をあらためて考えなくてはならない。社会全体、とりわけ経済活動は、どんどん改良される情報ツールを当然のこととして対応する。そうしないと競争に負ける。インターネットが流行り始めた頃、印象的な出来事があった。老舗の高級ホテルがそれまでの集客力に甘んじてインターネット上での予約を導入しなかった頃、小さなホテルがインターネットで予約できるシステムをいち早く導入し、国外からも予約がはいるようになった。老舗ホテルにとっては驚天動地であったろう。観光地での出来事であるが、似たことは各地で起こったと思われる。

 経済活動に比べると、教育や文化活動はこうした情報ツールの変化への対応が少しずつ遅れている。大学にインターネットを導入する委員会のメンバーであった経験からしても、大学教員は概して変化に疎かった。デジタル化の意味もほとんど分かっていない人もいた。属していた研究所の紀要に掲載された論文をPDFにして公開する案を出したところ、「そうすると誰からも見られてしまうのではないか」と思わぬ反対の声をあげる研究員がいて驚いたことがある。

 さすがに21世紀になると、あらゆる分野でインターネット上に情報を公開するのは当然の流れになった。そうなると、あらためて問われるのが情報の質である。正確かそうでないかは1つの判断基準であるが、宗教や宗教文化に関わる情報であると、それぞれの価値判断という厄介な基準が存在する。価値判断はむろんすべての事柄に関係するが、宗教関連だと、原理主義的な宗教の信奉者から無神論者や宗教否定論者に至るまで、多様な価値観と向き合うことになる。

 

「RIRCチャンネル」を始めたわけ

 宗教情報リサーチセンター(Religious Information Research Center)は、昨2021年12月にユーチューブで「RIRCチャンネル」を開設した。RIRCは1998年に設置され、以来私がセンター長を務めている。数多く発信されている国内外の宗教ニュースのうち、とくに重要と思われるものを取り上げ、できる限り正確に紹介・解説することを1つの役割として位置づけている。発信の方法は時代の変化に対応させていかなければならない。20世紀末からのスタートであったから、インターネットの社会的な利用が急速に広がっていく時期にあたり、その中で試行錯誤を重ねた。季刊の冊子を刊行することに加え、ホームページ上で各種の基本的宗教情報を掲載していった。

 ツイッターでの情報発信は2017年12月に開始した。さらに動画での情報発信が一般的になっているのを踏まえて、「RIRCチャンネル」開設に踏み切った。ただツイッターにしろ、ユーチューブでの発信にしろ、便利な情報ツールを利用しようという理由だけで始めたのではない。宗教をめぐるインターネット上の情報は、信頼性の乏しいものが山とある。さらにはフェイクニュースと言った方が適切なものさえ数多くある。ネット上の情報とはそうしたものだというのは最初から言われていることだが、だからといって拱手傍観というわけにもいかないと考えていた。

 マスメディアが発する宗教についての情報、とくに新宗教についての情報は信頼できるものが乏しいという実感は、1980年代には強いものになっていた。それが『新宗教事典』の編集を思い立った1つの大きな理由でもあった。1990年代からインターネットが一般に広まると、宗教をめぐる言説の混沌状況はますます深まった。たとえば1999年に開設され、2000年代には多くの利用者を得るようになった匿名掲示板「2ちゃんねる」には、どうでもいい言説が飛び交い、「2ちゃんねるの情報はゴミの山」などと嘲る人もいた。2ちゃんねるに限らず、ネット上の宗教に関する情報はまさに玉石混交であって、かつ圧倒的に石が多い。研究者にとっては噴飯ものの情報に満ち溢れている。

 ツイッターは2008年に日本語版が生まれ、ここでもどこまで信憑性があるか分からない宗教情報が乱れ飛ぶようになった。とはいえ、当事者でなければ知り得ないようなカルト問題についてのツイートや、あまり知られていない、重要な宗教関連の話題を提供するツイートも一部ある。誰が発信しているのか、どんな目的なのかに絶えず注意を払えば、それなりに情報収集の一助にはできる。

 RIRCでは、「宗教・今日は何の日」のテーマで、主に21世紀に報道された宗教ニュースのうち、注意を喚起したいものを開室日に毎回のように取り上げている。また「注目の宗教ニュース」のテーマで、最近の宗教報道の中で注目すべきものを紹介することも多い。RIRCから発信される情報は信頼性が高い、と受け取ってもらえるように努力している。情報が氾濫する時代には、目を引くような話題が次々と消費され、しかしすぐ忘れされるような傾向が強くなっている。過剰なまでの量の情報が発信されるなら、受け手の側はどうしてもそうなりがちである。それに抗うとまではいかないが、「記憶すべき宗教ニュースは何か」を隠れたテーマとしてRIRCからの発信を続けている。

 この活動の延長線上に「RIRCチャンネル」は開設された。現研究員だけでなく元研究員の協力も得ている。最近の宗教ニュースを解説しながら、その背景にある現代宗教のテーマを1つずつ説明していくというスタイルである。毎回そのテーマを専門に研究している研究員やゲストとの対談形式にしている。宗教についてさほど深い知識のない人でも理解できる内容になるように心がけている。2022年5月までに13本の動画を制作した。

 ユーチューブ参入を決めた理由の1つは、最近の動画作成ソフトはかなり使いやすくなったことである。使っているのはPower Directorというソフトだが、1990年代にチャレンジした動画編集ソフトと比べると、格段に操作しやすいことが分かった。パワーポイントで挿入する図や写真を作成するのがなかなか手間ではあるが、10分~15分程度に編集した動画を、ほぼ1週間程度でアップできるようになった。

 RIRCチャンネルの第2回には「坂本堤弁護士一家 ― 遺体発見から26年目の慰霊」というタイトルで、1989年にオウム真理教の幹部により殺害された坂本弁護士一家の慰霊問題を扱った*1。オウム真理教の後継団体である「アレフ」と「ひかりの輪」は活動を続け、今なお新しいメンバーを獲得している。2018年7月に麻原彰晃以下13人が死刑に処せられ、オウム真理教に関する報道は減少傾向である。サリン事件はたいていの人が知っているが、弁護士一家の殺害は知らない人が多くなった。オウム真理教事件が起きたときに生まれていなかったような人にとって、サリン事件さえ現実味の乏しいものになりつつある。ましてわずか1歳の長男を含む弁護士一家をオウム真理教の幹部6人が殺害した事件だと、聞いたことがないと答える若い人が増えた。しかし忘れていけないものがあることについて情報発信することは、新しい出来事についての発信に劣らず重要である。

 この動画のことを米国在住でオウム真理教に関心のある知人にメールで知らせたら、周りの米国人にも教えると返信が来た。日本語版しかないですと伝えたが、最近のユーチューブの自動翻訳はかなり優秀なので、米国人にも大体のメッセージは伝わるから大丈夫ということであった。ソフトが使いやすくなったことや、AIを用いた翻訳機能が向上したことなど、動画での情報公開にはありがたい情報ツールの進化である。こういうものはやはりどんどん活用していかなければならない。

 

なぜ変な話が広がる?

 宗教情報の適切な発信と口では言えるものの、実際に何をどのように発信するかはなかなか難しい。まず「適切な」がどういう意味であるかが簡単な話ではない。またフェイクニュースをはじめ、明らかに適切でない情報がネット上に満ち溢れているのも、それなりの理由があってのことであるから、このことを心得ておくことも必要になる。適切な発信が何かという問いは今に始まったことではなく、口頭や印刷物で発信する場合とも共通する課題である。ただネット時代にはこれまでとは比較にならないほど大量の人が、宗教についての種々雑多な情報を発信できるようになったので、何が適切かを考える作業は格段に難しくなった。インターネットの利用者がまだ比較的少なかった頃は、ネット上のエチケットを意味するネチケットという言葉が広がったことがあったが、今はそんな言葉は吹き飛んでいるような状況にある。

 明らかに適切でない情報が広がるのは理由がある。多くの人間がたちまちのうちに群がる情報がある。それはどんな類のものか。どういう特徴があるか。これまで述べてきた脳の働きを考えることがそのヒントになる。たとえばテレビ番組を見てみよう。相当量を占めるのは「食べる行為」にまつわる番組である。料理番組だけでなく、食べ歩き、食べ物の紹介などがない日はない。生物である人間にとって食は生きていくための必須物である。どうやって手に入れるか、何を食べるか、どう食べるかは、最大の関心事である。それゆえ、ひたすら食べるシーンだけのインスタグラムが大人気になったりする。

 格闘技の番組も一定程度を占める。相撲、ボクシング、K-1などの試合中継は、なんとなく見るというより、見る人が熱中してしまうタイプである。興奮してしまう人もいる。野球、サッカー、バスケットといった団体競技を中継する番組もまた、熱狂しながら見る人が出てくる。個人が敵と闘う、あるいは仲間が集まって敵と闘う光景に強い関心を抱くのは、生物としての人間に組み込まれた反応の1つである。

 これが言語面での攻撃、つまり誹謗、中傷、ののしりといった行為と、脳の反応という面から見れば連続していることが明らかにされてきた。脳の前頭葉、側頭葉、頭頂葉、基底核に囲まれた「島」と呼ばれる領域がある。この領域の働きについての研究は、島で感じる痛みは身体的なものにも精神的なものにもわたることを示している。身体が傷つけられたような辛い光景を見て「心が痛む」という表現をするのは、この島の働きゆえであると理解できる。

 ネットでの情報発信がこうしたものに集中し、また多くの人がそれに反応するのは、進化論的には人間が古代人とほぼ同じ脳の機能を継承していることが関係している。無意識のうちに生じる反応の力に対し、主に前頭葉で処理される理性の力はおそろしく脆弱である。プーチン大統領を支持し、ウクライナ侵攻を支持するロシア人が多いのは、情報が統制されている社会の影響という側面があることは確かであろう。また中国政府がネット上の宗教統制に本格的に乗り出したのは、情報の統制ができなくなると、政府への批判が増えることを恐れてのことなのは明らかである。だが、それだけで説明はつけられない。

 ウクライナの惨状を知って、日本では防衛力を高めるべきという意見は増えている。これは情報が厳しく統制された社会での話ではない。自分たちの集団が危機に直面している、あるいは危機を迎えるかもしれないというときに起こる自然な反応である。政治家は概してこの人間の原初的反応を察知することに長けている。それがときに戦争勃発へのレールを用意する。

 人間の脳に深く刻まれた反応がいかなる作用をするのかは、現代社会における宗教関連の出来事を理解する上でも外すことはできない。脳科学を宗教研究にも参照するとするなら、まさにこの点が一つの鍵となる。人間は相手を敵とみなしたら臨戦態勢になる。集団は他集団から襲われそうになったら、あるいは襲われたら、ただちに協力して闘いの道を選ぶ。これを十分踏まえて、一つひとつの問題に対して組み込まれた反応を、どうすればより悲劇的でない状況へと導くことができるかが課題である。DNAに組み込まれた反応様式の圧倒的な強固さを自覚することは、まず第一歩である。宗教思想の研究だと、もっぱら理性の働きの結果を扱う。だが、その思想の背後、あるいは基底には、無数の無意識的な情動と意図とが潜んでいる。それを具体的に明らかにはできないにしても、そう想像するための手立てが豊かになっていることには気づかなければならない。

 

生き物としての「宗教」との向かい合い

 偏りの少ない宗教情報を発信したいと考えても、一体それはどういうものであればいいのか。これは唯一の答など得られない問である。実際的なやり方として考え得るのは、明確に避けるべき事態を予測し、それに陥らない道を探ることである。やや消極的とも思えるが、多様な価値観の混在する社会では、これすらそう容易ではない。RIRCチャンネルも、それに近いことを目指しているのだが、しばらくはやはり試行錯誤である。

 雑多な宗教情報が氾濫すると同時に、宗教自体も今まで以上に変容のスピードが増している。宗教が歴史的にも現在も絶えず変化していることは言うまでもない。1997年に刊行した『世界の宗教101物語』*2の「はしがき」に次のように書いた。

宗教の歴史は実に興味深い。あるときある文化のもとで産声をあげた宗教が、まるで生き物のように姿を変えて、地球上のいろいろな地域に広まっている。また同じ民族、国家の中で長い間信仰されてきた宗教も、時代の移り変わりとともに、その内実をどんどん変化させていく。したがって、仏教、キリスト教、イスラームなどと一口に言っても、実際には個々の姿は実に多様であって、それは想像を超えるものがある。宗教名が同じだから、信仰形態も同じようなものだろうという先入見は、まずもって捨て去ることから、宗教史への理解は始まるといってもいいだろう。

 この立場は基本的に今でも変わらない。ただ膨大な宗教史の研究の蓄積に接するなら、その多様さと取り組むための手立ては、難しさを増していると実感する。それを承知の上で、望ましい一般的な態度は何かと言えば、トップダウン的方法とボトムアップ的方法を、より頻繁にそしてより多くの人の協力ですり合わせていくことである。これはここ数回述べてきた脳の予測の仕組みからも導かれる。脳は対象を予測して発した信号と、感覚器官から得られた信号とを絶えず照らし合わせて誤差を測定する。誤差が小さくなるように照合作業を繰り返す。

 この仕組みをやや大胆に宗教研究に応用してみよう。研究対象への視点を予測として出すには、これまでの研究理論の参照が必須になる。研究対象からの情報をとらえるには、フィールドワーク、データの探索といった行為である。ニューロンがそうであるように、この作業は複数の研究者が協力すれば、とても有効に作用する可能性が高い。脳が進化の過程で作り上げた環境に適応するやり方は、人間社会の行動にも参照できることが多くあるはずだと考えている。

 

※次回は7/13(水)更新予定です。

 

*1:この動画は、RIRCチャンネルの下記のURLで見ることができる。長年にわたりオウム真理教の信者、元信者、さらにオウム真理教が引き起こした諸事件の被害者に取材を続けてきているフォトジャーナリストの藤田庄市氏との対談である。

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*2:井上順孝編『世界の宗教101物語』(新書館、1997年)。

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