宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第20回 「日常」は「科学」より「宗教」に近いかもしれない

恐怖に着眼したヒッチコック

 1990年代前半に朝日新聞社が企画した「20世紀の千人」というシリーズに、執筆者の1人として加わった。10巻本で1巻に100人の人物を扱う計画であった。その中の第8巻が「教祖・意識変革者の群れ」*1というテーマで、ここに私がこのシリーズで執筆担当した53人の大半が集中した。8巻で扱う100人のうち45人が私の担当であった。選択にはある程度の自由があったので、新宗教の教祖やその後継者をはじめ、かねがね関心を持っていた宗教家を何人か取り上げた。創価学会の牧口常三郎と戸田城聖、立正佼成会の庭野日敬、生長の家の谷口雅春、霊友会の久保継成、真如苑の伊藤真乗・友司といった大教団の創始者等のほか、璽宇の璽光尊、イエスの方舟の千石剛賢といった小さな宗教団体の教祖も扱った。見開き4頁での紹介であったから、それほど多くのことを記載できなかったが、調べるには相当時間がかかった。いい勉強になったと思っている。

 教祖が宗教的世界へと足を踏み入れる過程については、回心研究への関心を以前から抱いていたこともあって、『新宗教事典』(弘文堂、1990年)の編集時に、この点についてあれこれ考えることが多かった。その関心を持続しての「20世紀の千人」の執筆になった。教祖は宗教家として新しい組織を率いるようになった人物である。個人的な心の葛藤と向かい合うと同時に、その人が生きていた社会環境のどこかに大きな問題点を感じ、それと終生取り組んだという場合が多い。彼らの自伝、あるいはその生涯を描いた書などを読むと、教祖は身の回りの出来事から社会の理不尽さを感じる上では、理性的な判断というより、感情の働きが大きいと感じた。生きていれば誰しも不平や不満を感じ、理不尽さに憤りを感じることがあろう。教祖の多くはそうした個々の出来事の背後に社会的課題、宗教的課題を感知して、それを乗り越える術を説くようになる。彼らの生涯をいくつも読み進めると、表面をなぞったに過ぎないにしても、宗教が人間の心に深く立ち入ってくる理由についての考察は少しずつ深まった。ただその時は各教祖の生きざまに目が行き、それらに通底するものがいくつかあることを感じたものの、それを突き詰めるという作業はなおざりであった。当時はまだ認知系の研究に注意が及んでいなかったこともある。

 宗教家の他に研究者を何人か扱った。宗教学者のミルチャ・エリアーデ、ルドルフ・オットー、あるいは人類学者のジェイムズ・フレーザー、心理学者のウィリアム・ジェイムズ、ジャン・ピアジェといった人たちも扱った。自分の研究分野からすればここまでは緩く守備範囲と言えるが、そうとは言えないような人も若干扱わせてもらった。関心があったからである。その1人が第6巻の「メディア社会の旗手たち」*2に収められた映画監督のヒッチコックである。ヒッチコックの映画は若い頃いくつか観た。突然大量の鳥が人間を襲うようになる『鳥』(1963年)は、劇場で観ている人たち全員に固唾を飲ませるシーンが続いた。モノクロ映画であった『サイコ』(1960年)は、フロイトのエディプスコンプレックスを下敷きにしたと思われるが、観る人に次第に恐怖心が深まる構成であった。恐怖への着眼とその描き方は非凡と言わざるを得ない。

 

なぜそれに対し恐怖を抱く?

 実際の生活においては、予期しない災いがもたらす恐怖はいつ襲ってくるか分からない。人を死に至らしめるような細菌やウイルスの広がりも恐怖の対象である。人間が一番怖いと言う人もいる。なぜそのような恐ろしいことをするのか見当がつかない場合がある。1973年に日本で公開されたスピルバーグ監督の『激突!』は、人間の意図が理解できないことから生まれる恐怖を描く。大型トラックに命にかかわるような煽り運転をされる男が主人公だが、最後までトラック運転手の顔は出てこない。乗用車に乗った主人公はトラックが止まったサービスエリアで運転手を探そうとするが見つけられない。相手の顔が見えないことが観る人の恐怖を増幅している。半世紀ほど前の映画だが、人間は何に恐怖を抱くのかを考えさせる点では色褪せていない。

 ふと思ったが、AI時代にはAI機能を持つロボットがこのトラックの立ち位置に置き換わる可能性がある。『激突!』では、トラックの動きによって生じる主人公の恐怖は、実はトラックを運転している人間のハンドルさばきやアクセルの踏み具合などで、もたらされたものである。仮に悪意ある人間によってプログラミングされたAIロボットが出現したなら、それによって生じる恐怖を味わう人間の数は、暴走してくるトラックの比ではない。

 恐怖は、宗教の説法、布教、教化などでなされる話からも大なり小なり喚起される。人が宗教的な世界を受け入れるにあたって、恐怖の感情が果たす役割は重要と考える。カルト問題に触れた回では、恐怖心を利用するようなやり方があちこちに巧妙に埋め込まれていることに言及した。一般的にも入信したり、信仰心を深める上で、しばしば恐怖が介在する。恐怖の中でも死につながる事態がもたらす恐怖が宗教にとっては特別大きな意味を持つ。悪業をなしたものを待ち受ける地獄の存在、あるいは成仏できずさまよい続ける魂。誰もそうした世界を確かめたわけではない。それが古代より現代に至るまで一定の力を持っているのはどうしてか。恐怖を抱くことが生存にとって必要だったことは分かるが、何に対し恐怖心が生まれるのかは簡単な問題ではない。

 人間は科学的思考と呼ばれるものを発達させてきたが、その思考法が感情に与える影響はあまり強いようには思われない。進化心理学などが、人間の心を圧倒的に支配するのは、人間が文明社会を築く以前から作動していた情動であることを明らかにしてきている。いわゆる合理的判断がその人の感情や行動の大半を支配しているのではない。むしろその逆である。

 人間の意識や脳の働きへの研究が進むにつれて、合理的とか理性的と呼ばれてきたものに基づく判断の脆弱さが、広く認識されるようになった。合理性や理性は正確さを求めていると考えられているが、人間は実在(リアリティ)に対する正確な視点を提供するために進化したといった立場に真っ向から反対を表明するのが、前回の最後に短く言及しておいたドナルド・ホフマン(Donald Hoffman)である。『世界はありのままに見ることができない』*3という書の中で、人間は対象を正確に知覚できないというだけでなく、そもそも脳は正確に知覚しようとしているわけではないと述べている。そして主張されるのがFBT定理である。FBT定理とは端的に言うと、「適応は真実に勝る」とする定理である。FBTはFitness-Beats-Truthの頭文字である。

 前々回、前回に触れたFEP(自由エネルギー原理)だと、知覚は客観的世界をそのままに捉えることはできないが、それをより正確に把握すべく推論するのだと前提されているようである。これに対しFBT定理は、「真の」世界の状態を推論せず、単に期待適合度ペイオフを最大化しようとする戦略の方が、一貫して良い結果を出すと考える。真の実在は得られないという哲学的な前提に立っている。人間の知覚システムは、適応的な行動を導くための種特異的なインターフェースを提供するために進化してきたのであって、客観的現実の真実的な表現を提供するためではないとしている。

 

知覚のインターフェース理論

 こうして主張されるのが、知覚のインターフェース理論(ITP: Interface Theory of Perception)である。人間は実在を見たり感じたりしているわけではなくて、実在とのインターフェースを見たり感じたりしているだけだとする。実在をそのまま捉えることはできず、人間独自のユーザーインターフェース(知覚系)を通して実在と相互作用する。これをデスクトップのパソコンをたとえに持ち出して説明する。デスクトップは一種の実在ではあるが、そこにあるアイコンはコンピュータの中で実際に起こっていることではない。デスクトップは便利な対話の手段なので実在として扱われているが、実はたんなるインターフェースに過ぎない。そして日常におけるあらゆるものが、たとえばリンゴも電話も自分の手も同様であると考える。自分にとって役に立つ何かを見るけれども、実在は見ないとする。空間、時間、物体はバーチャルワールドである。時空は携帯端末のデータ構造にもよく似た、私たちの生存に資するデータフォーマットとなる。

 このような前提のもとに、主に視覚を例にとって話を進める。視神経が受け取っている情報量は膨大であって、脳はそれを処理できない。効率的にデータを圧縮して自分の存在にとって必要なデータとする。目は1億3000万個の光受容体を持っていて、毎秒数十億ビットの情報を集める。目の神経回路は質の低下をほとんど招くことなく、この数十憶ビットの情報を数百万の単位に圧縮できる。しかしながら最終的に視覚的注意を得ようとする競争に勝てるのは、そのうちのわずか40ビットにすぎない。ほとんどの情報が捨て去られているので、実在にアクセスできるはずもない。

 視覚は生物が生き延びるために用いられているのは間違いないが、何を捉えると生き延びるのに有利になるか。ここでの議論は具体的な事例がいくつか示されるので、データ圧縮の話よりは分かりやすい。クロマチュアとか共感覚といった興味深いテーマについて論じている。クロマチュアとは肌理きめを伴う色のことであり、共感覚はたとえば数字とか文字などに特定の色がついて見えたり、味覚と三次元の形状とが結びついたりする知覚のあり方をさす。

 クロマチュアはそれによって食べられるか食べられないか、安全なものかそうでないかなど、生きる上で重要な判断の手がかりを与える。視覚のインターフェースは私たちが占める生態的地位のもとで子どもを生み育てるに十分な期間生きていくのに必要なだけの適応度情報を教えてくれるにすぎないとされる。わずかなクロマチュアの違いを見分ける能力が発達したことは、適応にとって都合が良かったことになる。食べられる肉と腐敗した肉がクロマチュアによって瞬時に判別されれば、それは生き延びる上で役に立つ。

 共感覚者は人類の4%、つまり25人に1人の割合だとホフマンは述べている。「色字」共感覚者だと、たとえばAの文字を見ると赤く見え、Bの文字は緑に見える。たいていの人は文字に特定の色を感じないが、共感覚者は目の前に並んだ文字がそれぞれ違った色に見えるのである。ホフマンは共感覚能力を知ることで、私たちが実在をありのままに見ているという信念のくびきから脱することができるはずだと述べる。

 分子や原子のレベルで起こっていることは知りようがないが、しかし日常生活でインターフェースによって得られる対象をどう扱えばよいかが分かっていれば環境に適応できるということらしい。人間の知覚は実在を捉えようと発達してきたわけではない。生存のために「解読する価値のある適応度情報をかき集めている」という主張である。

 知覚は対象を正確に捉えてはいない、あるいは捉えることができないという指摘であれば、すでに脳神経科学など多くの分野の研究者が前提としていることである。ホフマンが強調するのは、生存にとって知覚が世界を正確に捉えることは必要でなかったということのようである。ほとんどの人は目の網膜に錐体細胞を3種類持っていて、可視光線から色を感じられる。しかし人間の2倍あるいはそれ以上の種類の光受容体を持つ生物がいる。それは色の区別がその生物の生存に人間以上に重要な意味を持っていたからと推測される。あくまで環境への適応のために知覚は働くと理解できる。

 

「日常」はどこに位置する?

 FBT原理は人間の知覚が発達してきたのは適応のためだと前提する。主に視覚に即して説明されたこのような知覚の捉え方は、宗教の布教や教化に際して恐れの感情が喚起されることが多いことに何か新しい理解をもたらすであろうか。

 ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えたことで17世紀前半にローマ教皇庁の検邪聖省から有罪判決を受けたが、我々の日常の感覚は実はいまだに天動説である。太陽は東から昇り西に沈むと表現する。地球と一緒に我々の方が回転しているのだとは考えない。太陽は夏には日差しが強いので暑く、冬は日差しが弱いので寒いと受け止める。地球が地軸を傾けた状態で太陽の周りを回っているので季節が生じる、という理解をしている人がどれほどいるだろうか。

 自分の生存にとって意味のある認知の仕方で世界を理解するのは、ほとんどの人がいつも無意識的にやっていることである。地球は高速で回転しているから、自分が静かに座っていたとしても実は非常な速度で大地とともに移動しているとは知覚しようもない。大地は動かないと知覚して日常生活を送っている。岩は動かないとか、動かざること山の如しとかいった表現こそ、真実を伝えていると受け止める。だが岩も山も、我々と同様に宇宙空間を高速で移動している。地球がどれくらいのスピードで動いているかを知るのは、宇宙開発事業などにとっては必須だが、ほとんどの人間にとっては、何の関心もないし、それを知覚するすべがなくても一向に生活には困らない。それは古代から現代まで変わらない。

 人間が生存にとって有利になるような知覚の仕方をしてきたとするなら、恐怖をもたらす知覚が実際に存在を確認できないものも対象にしてきたのはなぜであろうか。「今のような生活を続けていると、必ず神の罰が下ります。」「この教えを信じない人は、死後地獄に落ちることになります。」教祖に限らず一般の信者もときにこうした言い方をする。

 神社、お寺、キリスト教会、モスク、神主さん、お坊さん、神父さん、牧師さん、おみくじ、絵馬、十字架、仏壇といった言葉を聞いたとき、それぞれの人が思い浮かべるのは、自分が今までに体験した記憶からたぐりよせられるイメージである。イメージを思い浮かべる過程は、対象が宗教に関係していようといまいと変わらない。だが、神とか悪魔、天国とか地獄といった類は、自分の経験からイメージするのではない。誰かから与えられたイメージを受け入れて想像したものであり、それが実際はどのような姿、どのような存在なのか、それこそ「実在」を追究して得られたものではない。

 見たこともないもの、確かめる術もないものの存在を信じる気にならない人からすると、神の罰とか地獄などを恐れる人の考えが理解しづらい。宗教はもともと非合理的なものだとされたりする。非合理的の特徴づけは合理的、理性的とされる考えや行為と対比されている。ところがFBT原理のように、そもそも実在など知覚できないし、人間はそのように進化したわけではなく、生存にとって役に立つような仕方で知覚を進化させたと考えると、非合理的という捉え方そのものが行き場を見失いそうである。宗教に関わることだけでなくすべての知覚が、合理的か非合理的かの区分ではなく、生存にとって役に立つかどうかの尺度に移行しそうだからである。

 しばしば「科学」と「宗教」とが対比される。科学が法則を求め、何が正しい理解であるかを求め続けるのに対し、宗教は合理的とか非合理的とかいった尺度では測れない真理に拠って立つとするのが、よく見られる対比のされ方である。見過ごされがちであるが、この対比では「日常」があまり斟酌されていない。ここで「日常」とは、特に科学的とか宗教的とか特徴づけられることなく、日常的に繰り返されている行動や考えのことである。では「日常」は「科学」と「宗教」のどちらに近いのであろうか。FBT原理は我々の「日常」についての再考を刺激する。

 

宗教は認知的に自然であるとしても

 認知宗教学者のロバート・マコーレー(Robert McCauley)はWhy Religion is Natural and Science is not *4という書の中で、「宗教は認知的に自然であり、科学はそうではない」と端的に述べている。科学的思考は省察的であるが、宗教的な認知は自然な認知に属する。この見方をとると、日常生活に科学的思考よりも宗教的な認知の方が多く受け入れられているのは当然となる。省察的であろうとすると、真剣になればなるほど脳に大きな負担がかかるので、ともすれば人はそれを避けようとする。他方、たとえば勧善懲悪的な判断はすっきりするだけでなく、受け入れやすい。悪いことをした人間がそれにふさわしい罰を受け、正しい行ないをした人間がそれにふさわしい賞賛を受けるのは落ち着きがいい。宗教はこの思考法と相性がいい。

 我々が日常的な行動において「本当はどうなっているのか」を探求し続けるより、「この際どうしたらよいのか」を考えるのは、悉くFBT原理に従っていることになるのであろうか。研究者はおおむね科学的思考を重視するが、日常生活においてはとてもそれが貫かれているとは思えない。「日常」と「宗教」の距離は「日常」と「科学」の距離よりはるかに近い。

 日本であると1月1日の日の出を「初日の出」と呼び、いつもの日の出と異なった神聖な意味合いを加える人が少なくない。地球が自転しながら太陽を1周する間に365回ほど生じる現象に過ぎないなどと言えば、へそ曲がりのレッテルを貼られそうである。元旦だって文化によって勝手に決められたもので、暦が違えば日にちも違ってくる。ロシア正教など現在でもユリウス暦を用いている宗教がある*5。そうすると新年自体がグレゴリオ暦よりも13日あとになる。長く続いた宗教儀礼を行なう日が、それぞれ異なる暦に基づいていても、その宗教の信者にとっては生きていく上でとりたてて障害にならない。信者同士のつながりにとっては昔からのしきたりに従った方が気持ちは安らぐであろう。新年が何を基準に決まったか、それは適切かなどの議論が重要だなどは思わない。

 「日常」と「宗教」の距離が「日常」と「科学」の距離より近いことは、人間の進化のプロセスからすれば自然であったということになりそうだが、ここで気になるのは科学的思考からの離反の程度である。知覚が実在を探求するより適応度を高めるために進化したというのはマクロには了解できるとしても、個別の現象を見ていけば、適応度を高めるとは思えないような知覚のあり方もそれなりに増殖している。

 キノコの中には毒キノコもあることを伝えるアイコンがユーザーインターフェースに備わっている文化と、そうでない文化とでは、当然前者の方が生き延びる人を多くするように作用すると推測される。実際、毒キノコの見分け方は多くの文化や社会に伝えられている。恐怖心は危険なものの察知と深く関わっている。だが、毒を毒と見分ける仕方が広まっていない社会もある。

 ホフマンはマーケティングへの応用例を示しながら、「超正常刺激」について語っている。ニセフトタマムシのオスがオーストラリアでスタビーと呼ばれるビール瓶を交尾の対象と誤認した例をとりあげ、たんに間違えただけでなく実際のメスよりもはるかに好んだとする。これが超正常刺激である。恐怖についても超正常刺激があるのか。銃やナイフを持って迫る相手は恐怖の対象であるが、永遠の罰を下す神は恐怖にとっての超正常刺激と言えるか。超正常刺激は正常な刺激の対象と同様の反応をもたらすだけでなく、その程度がいっそう強くなる。これは生存にとってプラスにもマイナスにもなる。

 

脳への負担を避けてばかりもいられない

 「日常」と「宗教」との距離の近さに気付くと、「日常」と「科学」との離れ具合が気になる。科学的思考が省察的で、脳に負担がかかるといっても、「とんでも説」の現代における跋扈などにはどう対処すべきか。この21世紀に、米国などにおいて地球平面論者(フラットアース論者)が存在する。地球は球体ではなく、平面だと主張する。国際連合の旗のデザインが地球が平面であることを示し、無数の星はホログラムで見せられているなどとする。2017年11月にはフラットアース論者が集まって、米国のノースカロライナ州で「第1回地球平面国際会議」が開催された。2019年にテキサス州で開かれた「第3回地球平面国際会議」には、主催者発表で参加者は約600人に上ったという。

 ここまでくると、我々が無意識のうちに陥っている天動説的な知覚とはレベルが異なってくる。多くの人が大地は平らで太陽は東から昇り西に沈むと表現しても、異なる知覚が可能なことを知っている。宇宙飛行士が地球を眺めたときの知覚を受け入れることができる。日常的にたとえば地球のちょうど反対側に住んでいる人が、自分とは逆向きに立っているとまではあまり考えなくても、地球が球体と理解するなら、本当はそうなんだろうと了解する人が多いだろう。

 著しく科学的思考と反する考えの広がりも、長いタイムスパンで見れば進化における適応のあり方に包摂されるかもしれない。ただ現代世界で宗教文化がどう相互影響をするのかを考えていくとき、こうしたものはいずれ淘汰されると楽観的に考える気にはならない。もっぱら恐怖心を植え付けることで、ある宗教的世界の「実在」を信じさせようとしている団体は日本にもあちこちに存在する。

 デスクトップ画面には大量のスパムメールや詐欺メールがやってくる。そこには「うまい話」があったり、恐怖心を起こさせる文章があったりする。それを見分けるためのリテラシーがないととんでもないことになる。同様に「うまい話」や恐怖心に訴えるような宗教団体に対する情報リテラシーがかつてないほど重要な時代に我々は生きている。なにが本当に適応(fitness)であるか、その考察にはやはり脳に負担のかかる省察的なやり方を続けざるを得ない。

 

※次回は4/13(水)更新予定です。

 

*1:朝日新聞社編『二十世紀の千人8 教祖・意識変革者の群れ―宗教・性・女性解放』朝日新聞社、1995年。

*2:朝日新聞社編『二十世紀の千人6 メディア社会の旗手たち』朝日新聞社、1995年。

*3:原著はDonald Hoffman, The Case Against Reality: Why Evolution Hid the Truth From Our Eyes, W. W. Norton & Company, 2019.

*4:Oxford University Press, 2011.

*5:YouTubeの「RIRCチャンネル」の「カトリックの司教がサンタを否定 ~カトリック・プロテスタント・オーソドクスの違いはどこにある?~」(2022年2月制作)で、ロシア正教はユリウス暦を用いるのでクリスマスの日にちがずれることに触れた。

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