宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第7回 陰謀論に吸い寄せられる人たち

オウム真理教の宗教法人解散命令から四半世紀

 國學院大學日本文化研究所で宗教教育プロジェクトを開始した1990年頃は、宗教教育はさほど注目される研究分野ではなかった。宗教教育をきちんとやるべきだというような論調が、突然日本社会に数多くみられるようになったのは、1995年3月20日に起こった東京の地下鉄サリン事件を契機としている。事件直後、誰がこのような悲惨な事件を引き起こしたのかが話題になった。直ちに疑われたのはオウム真理教であったが、当初は断定できない状況であり、オウム真理教の関与を否定する宗教学者すらいた。しかしほどなく証拠は集まり、オウム真理教の関与は疑いのないものとなった。麻原彰晃が指名手配され、5月16日に教団施設の「第6サティアン」の秘密部屋に隠れていたところを発見され逮捕された。

 オウム真理教の幹部には国立大学の理工系の大学院で研究していたような人物もいて、これが「なぜこのような優秀な学生が空中浮揚ができるなどという教祖の教えを信じるようになったのか」という問いを生んだ。そしてこれが「宗教についての教育をきちんとしてこなかったので、こうしたことになったのだ」という、やや飛躍した議論さえ出てきた。

 新宗教を研究分野にしており、『新宗教事典』の編集委員であったということ、さらに富士宮総本部で麻原彰晃と面談したこともあったということで、事件直後から半年ほどはひっきりなしに新聞、雑誌、テレビ局、ラジオ局などからの取材を受けることになった。CNNやニューズウィークなどいくつかの外国メディアからの取材もあった。そこで聞かれたことの中に、しばしば上記の問いが含まれていた。超能力をもつことを標榜し、ハルマゲドン*1を説くような麻原彰晃を、理系の優秀な学生がすっかり信奉し、殺人にまで関わるに至ったことが、到底理解し難いと思ったジャーナリストが少なくなかったことを示す。

 だが、知識人や科学者は宗教を信じないとか、若い人は宗教に関心がないと決めつけることなどできない。歴史的に宗教の継承や伝播がどのような人々によって担われてきたかを考えれば、すぐ分かる話である。たとえば仏教の例を考えるなら、インドから中国へ経典をもたらした人も、中国から日本へ中国仏教を伝えた人も、その時代の最高級の知識人である。三蔵法師しかり、最澄や空海しかりである。現代社会においても、アンケート調査等を冷静に分析すればそんな決めつけは生まれない。科学者は宗教など信じないというのも思い込みであり、死後の世界が存在すると主張する科学者はいくらでもいる。

 宗教を信じる人が殺人を犯すのは信じられないというのも、宗教の一面しか見ていない。あるいはそうあって欲しいという願望のあらわれかもしれない。宗教が殺人、それも集団殺人に関わりを持った例も歴史上数限りなくある。十字軍やジハードは多くの人が知っている事例である。神風特攻隊が宗教と殺人に関わってくる話だと思いもしないとしたら、想像力の欠如である。

 

継承された課題

 2018年7月に、麻原彰晃とオウム真理教の幹部計13人の死刑執行が、6日と26日の2回に分けてなされた。21世紀に入るあたりから、オウム事件のインパクトは社会ではどんどん薄れる傾向にあったが、この死刑執行でとくにマスメディアはオウム問題に区切りをつけた感が強い。それでもときおりは事件から何らかの教訓を得ようとするスタンスのものは見受けられる。オウム真理教事件を契機に噴出した宗教への根源的問いは続いているし、現代宗教が孕む問題点は、その後起こったさまざまな宗教絡みの事件に顔を見せている。

 中外日報という戦前から続いている宗教専門紙では、2020年9月から11月にかけて「地下鉄サリン事件から25年」というテーマで、10人の寄稿を連載した。サリン事件で夫を亡くされた高橋シズヱ氏をはじめ、ジャーナリスト、宗教研究者、弁護士、宗教家、ひかりの輪脱会者といったさまざまな立場の人が、問題を今なお考えるべき事柄として議論している。私も最終回に「『現在のこと』としてのオウム事件」というタイトルで寄稿した。10回の連載は下記から読むことができる。

https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/list/kako/

 オウム問題に圧縮されていた宗教に関わる現代的な問題は、解決されたどころではない。提起された問題と正面から取り組み続ける姿勢を保っているマスメディアはきわめて少ないとはいえ、事件直後沸騰していた議論が雲散霧消したわけではない。21世紀にも引き続き取り組まれているテーマがいくつか見出せる。その1つである宗教教育に関わる問題は宗教文化教育の提唱という形で展開を見せ、取り組むべき課題が具体的に論じられている。日本のみならず世界で起こっている宗教問題に対する視野を、若い世代が広げることの必要性が強く認識されている。さらに宗教情報リテラシーあるいはカルト問題にも注意が向けられるようになった。

 十代後半から二十代にかけては、大脳の前頭前野が成熟する時期とされている。前頭前野はほとんどあらゆる感覚刺激に関して高次な処理を受けた情報が集まっているとされる。意思決定や社会的行動に関して非常に重要な役割を果たす部位である。

 オンラインで公開されている「脳科学辞典」によると、前頭前野が大脳に占める割合は「ネコで3.5%、イヌで7%、サルで11.5%、チンパンジーで17%であるのに対し、ヒトでは29%を占める」という。この前頭前野は成熟が最も遅い脳部位の1つであり、同時に悲しいことだが、老化に伴って最も早く機能低下の起こる部位でもある。とすれば十代後半から二十代にかけてどのような思想や宗教に接したかは、その後の人生に大きな影響を与える。また若者が突飛な教えをもつ宗教を信じるようになったり、中高年の人がそれまで信仰していた宗教がおかしなものだと気づいても、なかなかやめられないというのは、前頭前野のこの特性からもある程度説明がつけられそうである。そうすると宗教情報リテラシーを養うという課題は、人間の脳の特性をも考慮していかねばなるまい。

 

オウム信者の間にあった陰謀論

 麻原彰晃は、超能力を誇示する一方で、いわゆる陰謀論というべき教えを信者たちにいくつも説いた。これについては、2011年に刊行された宗教情報リサーチセンター編『情報時代のオウム真理教』(春秋社)の中で、辻隆太朗氏が「オウム真理教と陰謀論」という章で分析を試みている。ここで辻氏は陰謀論の中でも「新世界秩序(NWO)」陰謀論と呼ばれるものに注目している。こうした陰謀論は、自己にとって認めがたい社会の諸々を「誤り」とみなし、その原因を邪悪な何者かの陰謀に帰することによって、自己の正しさを損なうことなしに現実を「理解」するのだと、端的に述べている。

 オウム真理教は自分たちに都合の悪いことは、すべて陰謀というフィルターで解釈するようになったとしている。麻原彰晃の説いた陰謀論をすべての信者が心から信じていたわけではなく、大方は半信半疑だったが、サリンの生成の主役となった土谷正実のようにすっかり受容していた信者もいるとしている。

 辻氏はその後『世界の陰謀論を読み解く――ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ』(講談社現代新書、2012年)を刊行しているが、今回のアメリカ大統領選挙におけるQアノンの影響を見ると、陰謀論と宗教の関わりはもっときちんと研究すべき時代になったと考える。陰謀論は今に始まったことではないが、問題はそれを広める媒体の急激なそして大きな変化である。

 麻原はGHQによって日本の良さが全否定され、アメリカ礼賛の思想が植えつけられたとし、またユダヤ資本による日本乗っ取りの陰謀があるなどとした。フリーメーソンによる世界征服のたくらみについてもしばしば述べている。しかしこうした考えの多くは麻原彰晃の独自のものではなく、一部の日本人論者の主張と重なっている。GHQによって日本の文化が破壊されたというような主張は、保守的な論壇では珍しいものではない。問題を深刻に受け止めなくてはならないのは、SNS時代には陰謀論と呼びうるものが、かつてないほど短期間に拡散し、かつ影響力を増している点である。

 

「秘密がかくされている」ことの魅力

 宗教にはしばしば秘儀的部分がある。近寄ってはならない場所がある。一部の人にしか閲覧させない文書がある。特定の資格があると認められた人にしか伝えられない秘伝の法がある。密教という言葉は近づき難さと同時に、何か人びとを引き寄せる力をもっていそうである。

 秘されていることは魅力になる。秘仏の御開帳には人がどっと集まる。禁断の地には密かに足を踏み入れたくなる。見てはならないとなると、余計見たくなるという人間の心理もある。宗教において隠されているものは尊いものであり、聖なるものである。あるいはむやみに近寄ると危ないものであったりする。

 これに対し陰謀論では、隠されているものの中には悪をもたらす根源が潜む。自分たちの存在を危うくするものであるので、対決する必要があると認識されたりする。しかし隠されていること自体が魅力をもたらすのは同じである。踊らされ、コントロールされていることに気づかなければならないという主張は、根拠が示されなくても、なぜか人を吸い寄せる。これに飛びつく人たちには情報リテラシーが欠けていると言えようが、その世界観自体に強烈な魅力を感じる人がいるのも事実だ。情報リテラシーはある特定の専門分野での知識が深いとか、文章を書くのがうまいとかは関係ない。自分の得ている情報を相対化し、批判的に検討するという心の構えがないとなかなか養えない。

 陰謀論を面白がるだけの人と信奉する人とには大きな違いがあるが、両者は入り混じるから厄介なことになる。SNS時代には、ある陰謀論を面白がって拡散する人がいると、それを受信した人の中に情報リテラシーが乏しい人がいて、それを事実と思いさらに拡散したりする。それはときに短期間に広範囲に生じる。その陰謀論がネット上の情報というにとどまらず、一部の人はそれに基づく行動まで起こす。そういう例が21世紀には非常に増えている。

 陰謀論ではないが、イエス・キリストが処刑されず日本にやってきて没したので、青森県の戸来(へらい)村にはキリストの墓地があるとか、源義経が追手に捕まることなく蒙古に渡り、ジンギスカンになったといった話がある。通常は研究者はこうした話を信じはしないが、面白い伝承として扱うことはある。その話が観光資源になるくらいのことであれば、目くじらを立てることもあるまい。だがQアノンの信奉者のようなレベルになると、面白いで済まなくなる。

 歴史修正主義者と呼ばれる人たちの主張の中には、陰謀論ときわめて近いもの、ほぼ陰謀論と言っていいものまで含まれている。虚構を楽しむというレベルではなく、ある属性をもった人たちを陰謀を企んでいると一方的に決めつけ、さらに攻撃する例まで増えている。ヘイトスピーチの中にもそれがある。一部の人たちのパフォーマンスとして軽く考えていると、それがいわれなき無差別殺人や理念なきクーデターにまでなりかねない。SNS時代にはこうした事態にまで至りやすくなる。宗教情報リテラシーという問題も、この時代的状況を十分踏まえて考えなくてはならない。

 

*1:アルマゲドンと表記されることもある。新約聖書の「黙示録」16章に出てくる地名であるが、オウム真理教では人類最終戦争という意味で使われた。

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