宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第9回 形を変える網の目

粗い目での防御

 2020年の春、COVID-19の広がりが脅威となり始めた頃、ちょっとしたマスク論争が巷に見られた。通常の布マスクの目はコロナウイルスを防ぐには粗すぎるのでマスクの効果はほとんどない、と知られるようになった。そこで、マスクはつけてもほとんど効果ないと主張する人と、一定の効果があるからつけるべきだと主張する人とがあちこちで論陣を張った。

 マスクの網の目がウイルスに比して桁違いに粗いことだけで考えると、ほとんど役には立たないように思われる。新型コロナウイルスの直径は約0.1㎛(マイクロメートル)とされている。1㎛は1㎜の千分の1という小ささである。マスクの網の目はだいたい10㎛から100㎛とされる。ウイルスの大きさの100倍から1000倍に当たる。仮にもっとも目が細かい10㎛ほどのマスクを例にとってみる。ウイルスを直径7㎝弱のテニスボールに見立てると、7m近い幅の網の目でテニスボールを阻止しようとするようなものである。たとえ2枚3枚重ねたところで防げるボールなどほとんどない。

 それでも効果があるとされるのは、マスクは飛沫に含まれるウイルスの防御には一定の効果があるからだ。飛沫になると5㎛ほどの大きさなので、先ほどのテニスボールのたとえを使うと、10㎛のマスクなら倍ほどの幅、つまりテニスボールに対して14㎝近い幅の網の目となるから、除去率は各段にあがる。布マスクより目の細かな不織布マスクが推奨されたのは、網目の大きさという条件だけを考えても当然である。

 2020年に配られ、さんざんの不評を招いたアベノマスクは、布製なので500㎛ほどの網の目となる。コロナウイルスの5千倍の大きさである。飛沫に対しても100倍ほど粗いことになる。ただこれが15枚重ねられているので、1割ほどはカットできるかもしれないという実験をした人もいる。それにしても、このような子供だまし的な政策に、よく400億円以上もの金を税金から使ったものである。

 ちなみに医療従事者が使用するN95マスクだと、0.3㎛以上の微粒子を95%以上遮断するとされている。飛沫は防げるし、ウイルスもいわば3倍の幅の網で捉えるわけになるから、かなり期待できる。実際には網目だけではなく、静電気の力も借りるので、除去率はさらにアップする。

 空気も通さないようなビニール製のもので口や鼻を覆えば、完全に防げるだろうが、それでは呼吸ができない。肺が求める酸素は透過させつつ、病原菌を防ごうとするとき、マスクの網の目構造はとても便利である。よく考えると、網の目が持っている機能はとても興味深い。魚を獲るときの網だと、狙う魚の大きさで網の目の大きさや網の太さが変わる。

 

スケールの齟齬

 比喩的な意味だが、知識の吸収の仕方にも粗いやり方と細かいやり方がある。世界的に広がった宗教の例は、仏教、キリスト教、イスラム教だとみなすのは、粗い捉え方になる。日本の宗教は神道と仏教だとするのもそうである。これに対し、例えば黒住教の教祖黒住宗忠が、太陽を呑み込む神秘体験をするきっかけは、孝養を尽くそうとした両親を相次いで亡くして、自らも重い病になったからとするのは、細かな事象の捉え方になる。

 粗い捉え方は初歩的とは言えるが、そこで得られた見解を軽いものとあしらうわけにはいかない。逆に細かい捉え方は、専門的な領域の知識が必要になるが、そこで得られたものが必ずしも貴重で重要だとはならない。獲りたい魚に応じて網の目の大きさが異なるように、どのようなことを知るための、あるいは考えるための知識を得るのかによって、必要なのが粗い捉え方になったり、細かい捉え方になったりする。

 大学で学部生のゼミを担当していた頃、卒業論文のテーマの相談をよく受けた。たまにではあるが、「キリスト教の特徴を調べたい」とか「イスラム教の現代の姿を調べたい」といった、壮大なテーマを小脇に抱えてやってくる学生がいた。一瞬、多少驚くが、「あなたがそんなテーマを扱うのは無理に決まっています」などといった撥ねつけは控えた。なぜそんな発想をしたのか聞いてみる。それを調べるにはどんな手立てがあると思うかを聞いてみる。だんだん自分がずいぶん無茶なことを考えていたと気づく学生もいる。しかしそれでもそのテーマでやりたいと、意志を貫く学生もいる。その場合は自由にさせた。自分が用意できる網の目と、捕獲したいと思った対象がまったく釣り合わないというのは、実際に捕獲の作業をやってみないと実感として得られない。ごく稀には、虫を取るような網でもって、鯨を捕獲したような気になった学生もいた。それはもう仕方がない。鯨が幻だったといつか気づくかもしれないし、一生気づかないかもしれない。

 

宗教研究者が意外に無自覚なこと

 宗教文化教育という発想を2000年代に得てから、2011年に宗教文化教育推進センターを発足させるまでの時期に、いくつかの悩みを抱えていた。その1つが、若い世代の人たちに、宗教や宗教文化についてどこまで詳しく教えるのが適切なのかであった。大学における講義の実情を長く見てきた身として、それは教わる側と教える側の両方が持つ網の目の関係になってくると感じていた。宗教を専門的に研究している人たちは、宗教にさほど関心ない人たちと、宗教を考える網の目のスケールや質が相当に異なるが、講義をするときに、この点を自覚していない研究者が少なくない。

 ずいぶん前であるが、ある宗教研究者の結婚式で、その人と近い領域を研究している年長の研究者が、お祝いのスピーチをした。新婦は体育系の大学の卒業生であった。その年長の研究者は新郎について、「彼が研究しているのは、皆さんもよくご存じの大本(おおもと)です」という紹介の仕方をした。新宗教研究者なら、大本(一般には大本教として知られる)を知らない人はまずいない。しかし新体操の練習を日々重ねてきた新婦や、その友人たちを前にして、大本について「よくご存じの」などという形容をするとはと、ちょっと驚いた。横で苦笑した人もいた。人は自分中心に物事を考えがちである。自分にとって当たり前の事なら、相手にとっても当たり前だろうと、無意識のうちに前提としてしまう。そのくせ、自分が知らないことを、相手がそれは常識だろうというような態度をとるとムッとしたりする。

 これは教育においては落とし穴である。自分と似たような研究分野に進むであろう人が聴講している講義は別だが、そうではない多くの学生を相手にするときは、この点への配慮は欠かせない。自分はその分野の専門家でも、相手はそうでないということを配慮した講義をするのはけっこう難しい。こうした配慮ができる教員の話には、惹きこまれる学生が多いはずだ。

 宗教文化教育推進センターでは宗教文化士制度を設けた*1。この資格は、宗教研究の専門分野に進む人だけを対象にしたものではなかった。大学で宗教についての知識を深めて、一般の企業などに勤めるつもりの人たちを広く視野に入れていた。そうなると、この資格を得ようとする人たちに、どこまで細かい知識やものの見方を求めるのかは大きな問題として迫った。

 

網の目は動く

 坂本龍馬が西郷隆盛について、「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」と評したことはよく知られている。西郷の人間としての器の大きさとか魅力を示す言葉として使われる。よく考えてみると、坂本龍馬と西郷隆盛の関係に限らず、人と人の関係には大なり小なりこれに似たような局面がある。周囲からあまり重視されていなかった人の才能に気づいて、それを伸ばすというような教師や上司がいる。多くの人から慕われている人に実際会って、なんだ別にたいした人ではないじゃないかという印象を抱く人もいる。

 これは人と人の関係であるが、研究の対象と研究者の間の関係にも当てはめられる。大雑把な目で眺めていれば、大雑把なことしか分からない。注意深く観察を続ければ、まだ誰も気づかなかったことを発見するかもしれない。その意味では研究の対象もまた、人によって響き方が異なってくる。

 宗教文化教育を推進していく上で、どれくらい詳しく宗教文化について教えるべきかには正解はないと思うようになった。だが当時脳科学に関心を抱き、そこでなされている議論を読んでいるうち、別の視点の重要さに気づいた。それは人間の脳の網の目、つまりネットワークの可変性という点である。脳の神経細胞(ニューロン)は、相互に信号を交換することで膨大な量の情報を蓄え、環境に対して瞬時に反応する。数百億から1千億と推定される脳内のニューロンが、それぞれ平均で数千から1万ほどのシナプスを介して、他のニューロンと結びつくとされている。脳内にどれほどのニューロンのネットワークがあるかは想像を絶する。その組み合わせの数が膨大であるだけでなく、つながり方が常に変化する。網の話でいえば、網の結び目が変わり網の形が変わる。そうすることで捉えるべきものが変化しても、それに応じていこうとする。

 この意味を考えていくと、網の目の粗さとか細かさというだけの話でなくなってくる。網がどの程度の可変性を備えているか、どのように変わっていくのかが大きな問題となる。考えてみれば、たとえばイスラム教を対象としても、ムスリムから見た場合、日本人で無宗教の人が見た場合、あるいは比較宗教学的な研究を重ねた人が見た場合では、粗く見ようが、細かく見ようが、基本的に着眼するところが大きく異なる。それでも、各自が持っていた着眼点は変えることもできる。それによって捉え方も大きく変わる可能性がある。

 

網を切り裂くものに注意

 宗教文化教育の教材にはどんな本がいいだろうかと、書店の宗教コーナーを訪れても、たいていの場合はやや絶望的な気持ちに襲われる。学術書はほんのわずかなスペースしか割り当てられていない。「こうすれば幸せになれる」といった類の誘い文句の本が立ち並ぶ。根拠のない説をあたかも学術的に支持されているような装いで宣伝した本がある。買う人はそれが学術的に正確かどうかは、たぶん気にしないのであろう。自分のニーズに合ったものを探し、それを買っていく。

 このような状況は今後も多分変わらない。日本において宗教関連の書に何が期待されるかは、多くの人が書籍を読むようになった近代において、時間をかけて形成されてきたものである。流行に左右される面はあっても、大きな流れはさほど変わらないと予測される。それでも研究者はこの状態を少し改善する気になって欲しいと考える。学術的研究の成果を踏まえつつも、多くの人が手にとって読めるような本が増えて欲しい。

 それを痛感するのは、大学教員とか評論家、あるいは作家という肩書はあっても、きちんと研究したとはとても思えないような宗教論を展開した本が、数多く書店に並んでいるからである。それらは往々にして平積みである。これらの影響は予想以上に深刻になりつつあり、陰謀論が流行する背景の一つにもなっている。研究とは関係ない話と、軽く考えてはいけない状況を迎えている。

 書物に限らず、対象との真摯な取り組みを嘲笑うかのようなテレビ番組、ウェブ上の映像、SNS上の主張はあちこちに跋扈している。これらは人間が築き上げてきた、いわば知のネットワークを切り裂いていく。網の目を動かして対象を捉えようとするのではなく、網の目を切断してしまう。切断されると、その部分はもはや対象を確実に捉えることができなくなる。この類の思考法や行為には「反知性主義」という言葉があてられることが多いが、「汎痴性主義」がもっとふさわしいかもしれない。

 

*1:宗教文化教育推進センターについては、次のサイトを参照。
 なお、宗教文化士はこれまで大学生、大学院生等を主な対象としてきたが、2021年度からは社会人も受験できる体制を構築する。
http://www.cerc.jp/index.html

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