宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第6回 フェイクニュースの感染力

フェイクニュース時代の到来

 2017年2月上旬、いくつかの博物館を調査するためワシントンに行ったとき、その近くにあったホワイトハウスの周りの様子も少し見学した。トランプ大統領が米国の大統領に選ばれ、少なからぬ数の米国の知識人たちが衝撃を受けていた時期であった。就任早々の1月25日には移民及び国境政策に関する2つの大統領令に署名がなされた。

 ホワイトハウスから少し歩くと、ニュージアム(NEWSEUM)というユニークな報道博物館があった。ニュージアムはニュースとミュージアムの合成語である。ベルリンの壁の一部が展示された一角があった。ベルリンの壁崩壊以前に西ベルリン側に向いていたカラフルな模様と、東ベルリン側に向いていた模様のない表裏が対比されていた。置かれていた長さ数メートルほどのその壁が、2つの社会にあった雰囲気の差を雄弁に物語っていた。あちこち回っていると、ある階の入り口にトランプ大統領の移民政策が米国人の安全を保つものであるかどうか、YESかNOの意見を求めるパネルがあるのに気付いた。賛成か反対かシールを貼れるようになっていたのだが、圧倒的にNOすなわちこの政策に反対のシールが多かった。とても残念なことにこのニュージアムは財政難により2019年末でもって閉館となった。

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 大統領就任式が行なわれたのは1月21日であったが、その式に集まった人数について、トランプ大統領は「就任式の観衆としては文句なく過去最大」と述べた。マスコミは2009年のオバマ大統領就任式のときの観衆と写真を並べて示し、トランプ大統領就任式の観衆の少なさが歴然としているとした。ところがトランプ大統領は、こともあろうにマスコミが嘘をついていると言って非難した。

 マスメディアはしばしば偏った報道をする。ある一面だけを報道したり、特定の価値観からの見解を述べるのは日常茶飯である。ほぼ御用新聞と化している例もある。けれどもトランプ大統領の言説はそれとはちょっと質が異なる。誰の目にも明らかな画像、さらには映像という証拠があるにも関わらず、それを嘘と主張する。ちょっとそそっかしい人がやってしまったしくじりとはわけが違う。一国の大統領が堂々と虚言を吐いたわけである。この出来事は今にして思えば、フェイクニュースがかつてないほど堂々と語られる時代が到来したのだという現実を、世界の人々に非常に分かりやすい形で知らしめた一幕であった。

 2020年11月、トランプ大統領は再選を果たせなかった。不正な投票が行なわれたからだというトランプ大統領の主張は、これまでの発言からすると、想定外ではなく、やはりという思いで受け止めた人が多い。しかしもっと気になるのは、この大統領の主張を受け入れ、報道が間違っていると信じる人の数が半端でないことである。そしてそのような人は米国内に限られず、日本にも少なからず存在する。

 

SNS時代に削がれるネット情報の信頼性

 「2ちゃんねる」が開設されたのは1999年である。その存在が知られると、若い世代を中心に書き込みが殺到したが、根拠のない話や誹謗中傷も数多かった。インターネットが大衆化した頃、そもそもネット上の情報はほとんどゴミであると言った人もいる。それでも、インターネットがそれほど大衆化していなかった1990年代前半くらいまでは、ネチケット(ネット上でのエチケット)が曲がりなりにも気にかけられる姿勢がいくらかあったと記憶している。1995年のWindows95の広まり、21世紀にはいってのインターネット利用の急激な拡大は、ネット情報の信頼性が低下していく過程でもあった。

 SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)は今や若い世代にとっては情報交換の主役である。2人で、あるいは数人で同じ場所にいながら、会話を交すことなくそれぞれがスマートフォンの画面を食い入るように見るといった状況をよく見かけるようになった。せっかく時間を設けて会ったはずの目の前にいる人と会話せず、いつでも連絡できる相手とスマートフォンを通してやりとりするというのは、優先度を間違えているのではないかという気にもなる。

 ただし脳内の情報処理システムからすると、目の前にいる相手よりスマートフォンを通してコミュニケーションしている相手の方を重要視するというのは、変なことをしているわけではない。目の前にいるかどうかは重要な入力情報ではあるが、それが第一に重要な意味をもつかどうかは、同時に入力される他の情報内容によって決まる。目の前にいる人からの情報がさして重要でないとき、スマートフォンから来た情報がずっと関心を呼ぶものなら、脳の処理システムはそちらにエネルギーを割く。ここには意識されない力も作用している。あまり変わり映えのしない会話をしている相手と一緒にいるとき、コンピュータゲームの方に気を奪われるのは、脳の情報処理システムの自動選択の結果と考えられる。

 

劣勢となる活字情報

 1980年代に大学で講義をしていた頃、4年生が「今年の新入生は何か変わった」というような感想を漏らすのをときどき聞いた。90年代になると、2年生が「今年の1年生は・・」などと言い始めた。時代の変化が世代ごとの物事を見る目や価値観などいろいろなことに影響を与えるのは当然だが、学生同士もそのことを感じていたのであろう。学年ごとの変化は1990年代後半以降の急ピッチの情報化の進行によって、いっそう激しくなったに違いない。

 SNSがもたらした情報環境の急激な変化は、世紀の変わり目くらいにいろいろな形で表面化した。社会環境の変化は若い世代の方に、より大きな影響をもたらすのが常である。前回も言及した学生に対する宗教意識調査であるが、1998年から2010年までの調査においては、情報ツールに関わる質問を何度か設けた。Windows95の登場によって、学生の情報収集のツールやそこで得た情報への関心のあり方に大きな変化が生じているように感じたからである。少しだけその結果に触れる。

 1980年代末から使う人が増えたポケベルは1996年がピークで、以後急速に減少に向かった。1998年には日常的なコミュニケーションの手段として、ポケベルがどの程度使われているかを質問してみた。ポケベルを用いている割合は13.9%であったが、翌99年に同じ質問をしたら1.2%に激減していた。1年で10分の1以下に減った。以後、こうした情報ツールは短期間で流行する一方、また短期間で廃れることもあるというのがよく分かった。ポケベルが人気を失う反面で、携帯電話・PHSを用いる割合は1998年に56.4%であったのが、99年には76.9%と上昇している。なお、ポケベル使用はその後も細々と続いていていたが、2019年9月にサービス終了となった。

 新しい情報ツールの登場は、近代において文化伝達の王座にあったと言える活字媒体を脅かした。意識調査では、1998年の段階では新聞を毎日読むという人の割合は43.9%、しばしば読むという人は19.9%で、6割以上の人がまだ新聞に親しんでいた。99年には日常的にニュースを知る手段としてもっとも多く用いているものを聞いたが、新聞は42.5%であった。過半数を割ったが、それでもまだある程度読まれていた。インターネットによってニュースを知る割合は3.4%に過ぎなかった。

 このあたりまでが新聞の影響が若い世代にも一定程度あった時期と思われる。21世紀に入ると新聞を毎日読むというような人はどんどん減っていくのが、学生たちとの会話から肌身に感じた。他方、インターネット上の情報が占める割合は急激に高くなっているのは意識調査で確認できた。インターネットは情報発信にも使われるようになった。2001年だとホームページをもっている割合が4.9%で、掲示板への書き込みやチャットは21.2%であった。2005年になると、ホームページをもっている人が7.8%、ブログをもっている人が7.2%になった。ほとんどの人がインターネットを利用していて、利用していない人は3.1%に過ぎなかった。2007年にはホームページをもっている人は9.6%、ブログは13.7%。またこの頃は2004年に始まったミクシィが人気で、使っている人は40.0%にのぼった。

 

絶えず判断力を養う

 2010年の調査では、自分のホームページをもっている人の割合が12.2%、ブログをしているのが26.8%、ミクシィを利用しているのが58.5%であった。そしてツイッターをしている人が12.3%となって、この時点で発信方法としてはホームページを凌いだ。以後のツイッターの流行は言うまでもない。

 「2ちゃんねる」の出現を10代、20代のときに初めて知った人たちも、今は中高年になりつつある。多くがツイッターの利用者になっているのではと推測される。ツイッターは誰もが気軽に世界中に発信できる反面、匿名でも発信できるので、インターネット上の情報の信憑性を損なっている面がある。

 ツイッターにはリツイート機能がある。誰かがつぶやいたことをリツイートして拡散できる。あまりフォロワーがいない人がつぶやいたことを、インフルエンサーと呼ばれる影響力の極めて高い人がリツイートとすると、一挙にその情報が広まったりする。その場合、その情報の信頼性を重視しないで、面白さ、さらには自分の価値観に合うかどうかだけで判断する人が出てくる。

 厄介なのは、こうした一般的状況の中で、これまでは一部の少数派の間だけで交わされていた情報が、なにかの拍子に表舞台に躍り出てくることである。情報化がもたらしたこうした側面は、宗教文化がどう継承されていくかということにも、多大な影響を与えるに違いない。

 今年3月にインターネットテレビ局Abema Primeの「特集 宗教を創る・・」のコーナーに、コメンテーター的な役で出演した。番組には情報時代の申し子のような男性が2人登場した。1人はMtoP教団の創始者であり、もう1人は空飛ぶスパゲッティ・モンスター教の日本支部神官と称する人であった。MtoP教団はSNS発の新宗教というふれこみである。入信の条件がアカウントをフォローするだけというもの。仕事や付き合いなどいろいろな場面で断る理由として「宗教上の理由で」と言えばいいという「教義(?)」をもっている。

 空飛ぶスパゲッティ・モンスター教は、ボビー・ヘンダーソンが米国中心に広がるインテリジェントデザイン(ID)論*1に対抗するために2005年に作ったものである。パロディ宗教という言い方もある。ただID論は米国でかなりの影響力をもつため、ヘンダーソンはある意味本気で対抗している。しかし日本支部は遊びというに近く、番組に登場した人も軽いノリであった。こうした情報時代の遊び感覚での宗教や宗教文化の活用(?)に、あまり目くじらを立てても仕方ないだろうとも思う。ちなみにこの番組の様子は下記のURLで見ることができる。

https://abema.tv/video/episode/89-66_s99_p1729

 誰もがインターネットを介して気楽に情報を受信、発信できるようになったのは、スマートフォン利用の広がりに依るところが大きい。掌に収まるスマートフォンだが、その中には謎の存在が潜んでいて、画面に投影される情報を見ている人が、その確かさをきちんと判断できるのかどうかを、密かにチェックしていると想像してみるのも面白い。スマートフォンを利用するための本人確認は、入力する数字を覚えていればいいが、そこから発せられる情報についての判断力は絶えず磨き上げる努力を続けないと、スマートフォンに弄ばれかねない。

 

*1:進化のプロセスには「知的なデザイン」、すなわち何らかの偉大な知性による設計や意図が働いているとし、それを科学的に説明しようとする理論。1980年代後半から1990年代初めにかけてにわかに注目されるようになった。神は出てこないが、創造論が根底にあり、ダーウィン進化論の批判を繰り広げている。

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