宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第12回 3人寄るのはクオラムセンシング?

文殊の知恵に必要なのは3人か

 「3人寄れば文殊の知恵」はよく使われることわざである。文殊菩薩(マンジュシュリー)は弥勒菩薩(マイトレーヤ)とともに大乗経典に早い時期に登場する菩薩で、「文殊の知恵」という言葉が示すように優れた知恵を持つ菩薩とされる。このことわざは、文殊菩薩について広く知られた伝承を利用しつつ、1人ではなく3人が智恵を合わせることの重要性を説いている。1人で考えるよりも複数の人間で知恵を合わせた方がいい場合が多いから、このことわざには特段疑義は出されない。

 ただ多少気になることがある。なぜ2人でも4人でもなく、3人なのかという疑問がふと湧いてくる。その疑問の内容にもう少し細かく分け入るとこうなる。このことわざが言いたいのは、1人の智恵では不十分だが、2人が智恵を合わせると少しましなものになり、3人で満足のいく答えが見つかるということなのか。それとも1人や2人では到底不十分だが、3人になった途端、満足いく答えになったということなのか。さらに4人以上になるとまた話が変わるのか。こだわっている点は少しもったいぶった表現をするなら、線形的な話なのか非線形的な話なのかにも絡んでくる。

 仮に非線形の話と仮定すると、3人になった途端に力を発揮するので、それは定足数の考え方に通じてくる。会議が成り立つ上で定足数は大事である。理事会とか総会で、組織の方針を決定するような会議においては、定足数が決められているのが普通である。過半数が多いが、厳しいものだと3分の2以上になっている場合もある。仮にある組織の理事が100人いたとして、理事会が成立するための定足数が過半数だったとする。ある会議に50人の理事しか集まらなかったら、定足数に満たないのでその会は成立しない。ここに5分遅れて1人の理事が到着すると、過半数になるから会は成立する。たった1人が加わっただけで、その会が成立するかしないかの大きな違いが生まれる。

 すでに集まっていた50人が会の成立に貢献できるかどうかは、ぎりぎりにもう1人がやってくるかどうかで決まるわけである。人間社会は合理的なようでそれなりに厄介なところがある取り決めを発明した。人間が発明したこの取り決めと、意外なところで類似するものが見つかった。

 

クオラムセンシング

 定足数のことを英語でクオラム(quorum)という。定足数は人間社会での取り決めの話だが、細菌(バクテリア)の興味深い活動を定義する上で、クオラムセンシング(quorum sensing)という用語が使われるようになった。この用語が提起されたのは1994年のようだが、21世紀にはとても注目される概念になっている。クオラムセンシングは日本語では「集団感知」と訳されることが多い。細菌は周囲の同じ細菌の密度を感知し、密度によって異なった働きをすることが分かった。この仕組みがすこぶる興味深い。それぞれの細菌は自己誘導因子(オートインデューサー)と呼ばれるシグナル物質を介して、周囲の細菌の密度を感知する。密度に応じて細菌のもつ特定の遺伝子の発現をコントロールするらしい。オートインデューサーは昆虫のフェロモンに相当する働きをする。

 人間であれば視覚そして聴覚を使って、周囲に自分の仲間がどれくらいいるか判断できる。ユニフォームを着ている集団だと、ある場所でどれくらい仲間が近くにいるかはすぐ分かる。国際会議でいろいろな国の言語で会話がなされているとき、日本語を聞きつけると日本人かなと思う。日本語があちこちで聞こえると、日本人や日本語をしゃべれる人が多い会議だなと少しホッとする。視覚や聴覚を使って自分の仲間の密度を判断している。

 人間と違って細菌は視覚や聴覚がない。しかし仲間とのコミュニケーションの手段はちゃんと持っていることが分かった。それがシグナル物質である。シグナル物質の作用は密度に応じて徐々に変わるのではなく、ONとOFFのような制御をするらしいことが分かってきた。ある値で突然切り替わるから、非線形の変化と言っていい。

 クオラムセンシングがクオラム、つまり定足数という言葉を使っているのは、このことと深く関係する。細菌がある密度までであると、特に行動を起こさないが、一定の密度になると特定の活動を始めることが分かったからである。1人増えただけで会議が成り立つように、ある密度に達すると、それまで特段の悪さをしていなかった細菌が急に悪さを始める。病原菌であると毒素の産生が一挙に増加する。細菌に感染した側の立場から言うと、少数の細菌が体内にいるうちはとくに何の症状もあらわれないが、一定程度の数に達した途端、熱が出たり、吐き気がしたり、だるくなったり、気分が悪くなったりと、何らかの病状が出てくる。

 人間の体には細胞より多い数の細菌がいると言われる。最近はあまり支持されていないようだが、細胞の数の10倍という説もあった。人の体の細胞は数十兆くらいと言われているから、細菌も数十兆から百兆くらいは間違いなくいるとされる。その重さは1㎏にもなるようだ。おおむね500種類を超える細菌が1人の体内にいると言われるが、多くの細菌と人間とは共生関係にある。細菌は人間の食べたものを多少は横取りするが、免疫システムと共同して感染症から宿主の体を守ってくれることもある。

 同じ薬が人によって効いたり効かなかったり、時には害になったりするのは、その人の遺伝子だけでなく、体内に住む細菌がどんな構成になっているかにも依存すると考えられている。しかし結果が分かるのは、薬を飲んでからであるので、これが厄介である。

 人間に悪さを働く細菌やウイルスが体に入っても、それが1個や2個であったら発症しない。けっこうな数が体に入らないと発症しない。発症に必要な数を最小発症数というが、その数は細菌やウイルスごとに大きく異なる。ノロウイルスは10~100くらいでも発症するとされている。これは相当強力な部類である。インフルエンザウイルスだと、2,000~3,000個くらいという説がある。なかには100万個以上でないと発症しないものもある。COVID -19の最小発症数にはまだ定説はないようだが、1,000個以下ということはなさそうである。10個や20個の侵入には怯えなくてもいい。

 細菌やウイルスのクオラムセンシングは、一人でいるときはおとなしそうで気弱にさえ見える人間が、集団となった途端いばり散らすような構図を連想してしまう。微生物の営みと人間の営みには通じるものがあっても少しもおかしくない。生物はすべて取り巻く環境に即応していかなければならない。「数を頼んで」という行為をウイルスもやっているわけだが、それが閾値のようになっているところが面白い。

 

3という数字

 3という数字やクオラムセンシングに関心を抱くのは、ある宗教の教えが誰かによって新たに唱えられ、それが周囲に広がっていくときには一定数の弟子が存在するという事実に、新しい光を当ててくれそうに思えるからである。新宗教の研究では教祖に特別の関心が向けられてきた。教祖がいないと新しい宗教は興らなかったわけであるから、これは当然である。しかしその教えが広まる上では弟子が必要である。それも1人ではおそらく広がらない。やはり複数の弟子が生まれることで、その宗教は社会的広がりを持つものになる。組織の広がりがある段階になれば、その維持や拡大には別の要因がいくつも関わってくる。あくまで初期の段階における、社会における新しい集団の誕生という局面への注目である。これも社会における非線形的な出来事と考えられそうである。

 3という数字は、三位一体、三尊像、三神一体論(トリムリティ)、日本神話の三貴子などを思い起こさせる。キリスト教において、父(神)と子(イエス)と聖霊という3つの位格は一体であるという説は、信者にとって理解すべきものではなく、受け入れるべきものなのであろう。ここにも、2つや4つではなく、3つであったから受け入れられたという側面があるのだろうか。仏教における三尊仏には、釈迦三尊、阿弥陀三尊、薬師三尊など多くの組み合わせがある。釈迦三尊だと釈迦如来の脇侍が文殊菩薩と普賢菩薩である。阿弥陀三尊だと阿弥陀如来の脇侍に通常観世音菩薩と勢至菩薩がいる。3体の仏像というのは、落ち着きがあるのだろうか。それで最小限の世界を築くのであろうか。ヒンドゥー教におけるトリムリティでは、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3神が、それぞれ創造、維持、破壊の役割を担う。だが3神はまた1つの聖なる存在を構成するとも考えられている。また日本神話でイザナギが黄泉国から帰って、穢れを祓おうと行なった禊で、三貴子が生まれた。左目を洗うとアマテラスが、右目を洗うとツクヨミが、そして鼻を洗うとスサノオが成った。両目と鼻という人間の顔と認知される最小のセットになっているのが興味深い。

 社会学者のジンメルは『社会学』(1908年)という本の中で、2人の相互作用と3人の相互作用とは異なることを夙に指摘している。単に人数が1人増えることではないとする。集団の量的規定という発想から論じられている。成員数が多すぎても少なすぎても集団の目的は維持できないと考えている。2人の場合は、一方が欠けるとその集団はなくなるが、3人だと1人が欠けても、誰かを補うことでその集団を維持できる。2人でも同じ理屈になりそうだが、2人だと新しいカップルは以前のカップルとは異なる集団になる。3人というのは、ある信念の成立や維持を考える上でも、最低限の数ということになる。3人以上になると集団は超個人的性格をもつ表象を生み出すからとジンメルは考えた。3人が3人以上の閾値の意味を持つ場合とともに、三者関係(トライアド)が2人でも、4人以上でもない関係の特殊性を持つことも論じている。

 物理的にも3が持っている特異な局面がある。椅子に2つの脚しかないと、非常に不安定である。3つ脚があって初めて安定した椅子の機能が生まれる。4つ脚があればもっと安定するが、それ以上増えなくても別に困らない。安定性が生まれる閾値が3である。さらに3の特異性を示す局面がある。それは三角形である。2つの線分では平面を作れない。3つ以上の線分で多角形が作れる。たとえば金属の棒をボルトでつなぐなどして多角形を作った場合、もっとも安定するのは三角形である。四角形では長方形に作った構造物に力が加わると平行四辺形になったりする。それ以上になるともっと不安定である。橋桁が三角形なのはその安定性ゆえである。

 このような3つの組み合わせがもつ安定性が、宗教の崇拝対象にも反映しているのであろうか。3人寄れば文殊の知恵になるのも、これと関係があるだろうか。3は思考を誘惑する数でもある。

 

宗教誕生時のクオラムセンシング

 イエス・キリストには12弟子がいた。12弟子及びパウロの存在は、ユダヤ教の改革運動がキリスト教という新しい宗教に転じる上で欠かせない。ムハンマドがメッカ(マッカ)からメディナに移住したとき、70人あまりが彼と行動をともにしたとされている。彼らはムハージルーンと呼ばれる。ブッダの最初の弟子になったのは、ブッダとともに苦行をした5人とされる。彼らはブッダが苦行を放棄したと思い、一時ブッダを脱落者と見なすが、やがて彼の悟りが本当であったと分かり弟子になる。

 新宗教においても教祖の教えを全面的に受け入れ、その教えを広げようとする弟子集団の存在は、その新宗教が社会に広がる最初期において不可欠である。黒住教教祖の黒住宗忠には六高弟と呼ばれる弟子がいて、中国地方や京都、北九州に教えを広げた。金光教教祖の金光大神の数人の直弟子は、広島、岡山、大阪へと教えを広げた。彼らは出社(でやしろ)と呼ばれた。天理教教祖の中山みきは、初期においてとくに見込んだ人物に「扇のさづけ」と呼ばれるものを渡した。神意を感じることのできる人と見なされたようだが、50~60人いたとされる。

 数人とか数十人の弟子的存在の人間が生まれれば、同じ信仰を持つ人の存在を互いに実感できる。よく言われることだが、1人では何もできない。しかし1人が始めなければ何も始まらない。宗教もそうである。だから創始者は重視される。しかし次の段階として、創始者の教えに共鳴する、あるいは共振する何人かがあらわれないと1つの運動体へと転換しない。ここにクオラムセンシング的な問題との共通基盤が見える。

 宗教が新たに誕生する際に、教祖の教えや活動に注目するのは、いわば宗教の質的側面への注目である。弟子の存在への注目は、これに量的側面への関心が加わる。ただし、ここでは正しい宗教だから広がるといった前提を持ち込むことは避けたい。現代社会を見渡しても、むしろ「悪貨は良貨を駆逐する」ような現象がままある。

 COVID -19は正しい使命を持っているから広がっているわけではない。広がる条件を得たから広がったのである。自然の現象を理解しようとして生まれた視点は、人間の思想や理念を論じる時にも大いに参考にしたいと考えている。言語を有する人間のコミュニケーション手段は、微生物に比べて複雑極まりない。相互作用はいろいろなパターンを形成する。単純な比較を急いてはなるまい。それでもクオラムセンシングという視点の導入は、新しい宗教運動が周囲に力を発揮し始める時の力学を考える上で、かなり魅力的である。この着想がオートインデューサーの機能を果たすかについては、まったく自信がないが。

 

※次回は7/14(水)更新予定です。

 

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