宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第24回(最終回) 常に変わる環境へのサ-チライトがつながりを照らす

意識的な選びと無意識的な選び

 現代宗教を中心的な研究対象にしているので、現在進行形で世界に起こっている宗教現象から何を読み取ったらいいのか、いつも考える癖ができてしまった。だがその多様さや複雑さには、時折目が眩みそうになる。さほど眩まないで済んでいるのは、これまでの自分の研究によって脳内にできあがっているフレームなりスキーマなりが、無意識のうちに対象を選び切り取っているからである。

 私は宗教情報リサーチセンター長として、季刊の『ラーク便り―日本と世界の宗教ニュースを読み解く』の編集を担当している。2022年5月刊行の最新号が94号であるから、23年半編集作業に携わっていることになる。毎回研究員が重要と思われる国内外の宗教ニュースを手短に紹介するので、それらにすべて目を通す。ときに聞いたこともない宗教団体の名前が出てくる。初めて知るような日本や国外の宗教習俗も少なくない。伝統的な宗教行事が毎年繰り返される一方で、新しい儀礼も各地で絶えず生まれている。コロナ禍は各地で伝統的な儀礼の大幅な変容をもたらしたこともよく分かった。感動するような宗教家の話があれば、他方には残念ながら宗教家による犯罪のニュースも少なくない。選ばれたニュースを見ているだけでも、絶えず新たな問題が宗教界に押し寄せていることが見て取れる。

 選ばれなかったニュース記事は、あまり重要でないと判断された場合が多いが、ときには見逃しと言うべきこともある。選ぼうとするニュースが重要なものかどうかは、それこそ選択する人の知識と経験に依存する。宗教研究を専門にしている若い研究者でも、やはりそれぞれに目の付け所は異なる。現代宗教の多様性からすれば、選択に違いが出るのは当然である。自分が重要と思ったものは他の人も重要と思うに違いないというのは、一種の思い込みである。おおよそは重なっても、重ならない部分も出てくる。研究員同士のやりとりを聞いていると、各自が独自のフレームをもって選んでいるのだと自覚するのは、意外に難しいものだといつも感じる。

 対象を選ぶときにも、脳内の記憶回路と分析的な判断回路は無意識のうちに作動している。意識して選んでいるつもりの記事であっても、絶えず無意識的な力が介入してくる。各人のこれまでの生きざま、さまざまな経験は、脳内に動的に格納されている。動的にというのは、新しい経験が古い経験の内容を修正したり、一部が置き換わったりすることがあるという意味である。その修正や置き換えには、新しい経験から学びとられたことだけでなく、遺伝的に継承されているその人の脳の機構も関係する。

 なぜ自分はこの宗教ニュースが重要だと思ったのか。そこから出発しても、考察の先は多方面に広がり、そのいずれにも決して辿り着けない奥行が控えている。この点を承知していないと、ニュース記事を拾うときだけでなく、研究を進める際にも、落とし穴が待ち受けている。自分が有している仮説の正しさを証明してくれそうな材料だけを集めがちな行程に入ってしまう。一見すると資料に基づいた筋道だった研究のように見えて、少し遠目に眺めるとひどく偏りの多い研究というのが出てくる1つの大きな理由である。

 脳は予測して外界についての知覚情報を修正していくという考えからすると、我々は絶えず外界から試されていることになる。あなたは今自分の置かれている状況を正確に把握しているか?その状況にどう対処しようとしているか?視覚や聴覚などに関しては、脳の予測の話は理解しやすい。宗教を対象にした研究をしている場合に、自分がとらえようとしている対象について、脳の予測という考え方は非常に参考になる。

 

事前の情報と脳の予測

 現代の宗教現象と取り組む場合は、どんなテーマであれ、予め得ておく情報は半端な量ではない。先行研究や関連する研究とまず向かい合うのは、歴史的な宗教を対象とする研究と同じである。また対象とする宗教に関わる文書資料を探し読み込むのも同様である。現代宗教を対象とするとき、そうした基本的な作業の他に、予め収集した方がいい情報が無数といっていいほどあり、それが特有の難しさをもたらす。研究対象にしようとするものに関わる重要な資料・データがどこにあるのかを探す必要がある。ある団体に関わる資料であれ民俗的な資料であれ、手探り状態から始めなければならない場合が多い。面談調査によってインフォーマントから情報を得ようとすると、誰をインフォーマントにすべきかも大変である。新しい教団の儀礼から情報を得る場合には、伝統的な宗教儀礼とは異なる難しさが生じる。アンケート調査の類をするなら、これまでの類似の調査の手法や結果を参照するとともに、実施しようとする調査内容が、答える側にとってどのように受け止められるかの予測が必要になる。面談調査では相手の個性についての予測が重要だが、アンケート調査では、質問文が、回答者にどのように受け止められる可能性があるかについての予測が必要になる。

 面談調査は事前の予測がなかなか立てにくい。インフォーマントを調査地で探す場合もあり、そのようなときには当人についての事前の予測は無理になる。それだけでなく、会話によって情報を得るというのはもっとも偏りが生じやすい調査法である。同じ人から同じ事柄について話を聞けば、同じ答えが返ってくると思う人もいるかもしれないが、さにあらず。相手も聞き取りに応じながら、やはり意識的無意識的に研究者の心を読もうとする。どんな状況かも少なくとも無意識のうちに受け答えに反映させている。こうしたことによって、返す言葉には微妙な変化が生じる。それゆえ、調査時に聞き取った話は、ある意味で一回切りの内容になる。別の人が同じような質問をしても、少し違う話が返ってくるのはむしろ自然である。いつ誰が聞いても同じような話しか返ってこないインフォーマントがいたら要注意である。機械的な受け答えになっている可能性がある。

 現代宗教については、メディアが発信した情報というのがある。これが一筋縄ではいかない。非常に参考になるものから、まさにフェイクニュースに近いものまである。それらがどのような目的で発せられた情報であるか、信頼できそうかどうかを見極める目を養うにはけっこうな時間がかかる。新聞、雑誌、テレビといった媒体ごとの特徴とともに、それぞれの新聞社、雑誌社、テレビ局の体質のようなものも考慮しなくてはならない。御用学者という言葉があるが、メディアにもその類は潜んでいる。全国紙の政治的スタンスは比較的読み取りやすいが、宗教に関わるスタンスは現代宗教に一定の知識がないと読み取りにくい。

 『ラーク便り』では神社新報、仏教タイムス、新宗教新聞、キリスト新聞、カトリック新聞、クリスチャン新聞、中外日報、文化時報という宗教専門紙に掲載された記事から、重要と思われるものを紹介している。新聞ごとに記載されているニュースとその論調はかなり異なる。ただそれぞれ立場が明確であるので、一定期間読んでいると、違いの理由を推察できるようになる。

 このように現代宗教を研究しようとするときに用いることが可能な手段は多岐にわたる。インターネット上の情報も対象になることが増えてきたが、ネット情報を対象にするとき、各種の予測は非常に難しくなる。情報リテラシーを養うのが肝要とはいえ、それが具体的にどのようなことを意味するかは、まだそれほど真剣に宗教研究者の間で議論されているようには思われない。この新しいメディアは、その姿を絶えず変容させるので、研究において用いる場合には、そこで広がっている情報の形態についての基本的な知識も得ておかなければならない。

 こうしてみると、現代宗教を対象とした場合、対象の見極めと研究方法のいずれについても、どのような予測が成り立つかを詰めていく作業は、ますます複雑で難しくなっているのを感じる。脳の予測は実際の得られた感覚との絶えざる照合のプロセスの中にある。これを応用すると、あれこれ研究調査してみて得られた結果から、自分のそれまで持っていた予測を修正していく手順における注意点が示唆される。とくに自分の予測を優先させたことが対象からの情報を正確に把握できなかった可能性を生んでいないかが重要である。いわゆる思い込みとの格闘である。研究が進むと、この格闘から目を逸らそうとする心理も働く。誰しもが陥りやすい罠である。

 

網の目の形状

 この連載のテーマに用いた「網の目」の比喩は、宗教文化という対象にも、また研究する側のフレームないしスキーマにも関わっている。網の目というと、魚や虫を捕るときの網とその形を想像しがちだが、実はそれらとは少し異なった点に注意を向けた方がいいかもしれない。網の目の形状や特徴は、ニューロンやインターネットのネットワークのそれに近い(下図参照)。つながりが作る形は流動的であり、結び目に何が集まっているかはたえず変わる。夥しい数のラインの結節点になっている箇所(ノード)がある一方で、わずかのラインがつながっているに過ぎないノードも多数存在する。網は基本的に立体構造で、層をなすような関係になることもある。またクラスター状のものが形成されることがある。 

 宗教文化は教義、儀礼、実践などが複雑なつながりを形成している。また視点を広げると、それぞれの社会における存在様式のつながりもある。それゆえある宗教についての境界線を引けと言われたら、研究者ごとに異なってくる。比喩的に述べるなら、仏教、キリスト教、イスラム教など世界的に広がった歴史的宗教は、多くのノードに関わり、広く複雑な宗教文化のネットワークを構成している。形成されたばかりの新宗教、あるいはローカルに知られている宗教習俗などは、その文化的ネットワークの拡がりはさほどではあるまい。

 この網の目の性格を考えると分かることだが、ある宗教と別の宗教、あるいは宗教と宗教でないものとの境界線は厳然たるものではない。たとえば研究者が新宗教と呼び、マスメディアが新興宗教と呼ぶとき、両者が想定している団体は重なる部分もあるが、ずれるところの方が大きい。これまでに新聞、雑誌、テレビなどのメディアから受けた数々の取材経験からすると、新宗教について扱うとき、たいてい場当たり的な境界線を設けていると感じた。研究者ではないから当然なのであるが、そもそも基礎知識を得てから取材しようという人はきわめて稀である。そのときどきに社会で漠然と形成されている境界線に乗っかって質問する。『新宗教の解読』*1を執筆したとき、この点は非常に気になったが、この状態が現在改善されているとはとても思えない。

 研究する側も多くの理論を学び、多様な宗教現象に接していくと、宗教文化と向かい合うときの自身の脳内のネットワークはしだいに複雑になっていく。対象をどう分析したらいいか迷うことも多くなる。何を対象に据えても、求める問の答えへの手掛かりが得られるのだとは分かってくるが、先に進んでいく難しさも実感するようになる。自分が追っているものの正体が見えなくなることもある。そのときの悪手は、見る視野を故意に遮ることである。そこまで研究が及ばないことを知って手を伸ばさないのは適切な判断であるが、最初から広く見ようともしなくなるのは問題である。

 複雑な展開を続け已むことのない宗教文化を前にして、絶えず予測をしながら研究の方法を探る試みは、環境に対応する生物の営み一般として捉えると重要な点が分かりやすくなる。環境への対応の第一は、対象は絶えず変わるのだという点を忘れないことである。世界各地で起こっている宗教現象を見ていくと、変化は驚くほどである。小さな変化は日常茶飯事であるが、大きな変化もよく起こる。気づいていないだけである。宗教情報リサーチセンターで日々の宗教ニュースを整理していると、大きな変化も実によく起こっていると実感する。

 連載第21回でも触れたジェンダー問題を例にとるなら、2021年12月に日本聖公会で初めて女性主教が選ばれた*2。世界の聖公会(アングリカン・コミュニオン)では、20世紀後半になって女性の聖職者を認める動きが広がってきた。各地で女性聖職者を認める動きになっている。これに対し、ローマカトリックではいまだ女性聖職者を認めていない。だが教皇が認めるという姿勢に転じればどうなるか分からない。人々のジェンダー問題に関する意識はどんどん変化している。日本の伝統宗教の一部は、この動きに対してきわめて保守的であるが、研究者は自身の見解がどうあれ、宗教とジェンダーの問題を扱うなら、人々の意識に急激な変化があらわれていることを前提としなければならない。

 大きな変化はあちこちで起こっている。政教問題、宗教と教育、カルト問題等々。大きな変化は歴史的な宗教であっても、いつでも起こり得る。歴史上繰り返されてきた変化の分析と、リアルタイムで生じている変化の分析は、自分がその変化に関与しうるという点で大きな違いがある。研究者の発言や記述が変化に影響を与える。生物の環境への適応が、環境にも影響していくのと同じである。

 分かりやすい例がカルト問題である。オウム真理教の後継団体に好意的に接する研究者が一部だがいる。他方で1995年の地下鉄サリン事件以前にオウム真理教の情報発信に研究者が関与したことを重く考え、カルト問題における研究者の立ち位置に非常に厳しい態度をとるようになった研究者がいる*3。宗教団体がテロを起こしたとき、以後どのような予測を抱くようになるかは、研究者によっても異なる。環境に対する予測という点からすると、オウム真理教事件がQアノン問題、神真都やまとQ問題と類似点を持つのではないかとみなす人は、少なくとも危機への対応という観点からは、環境の変化からの学びの意識が強くある。

 

師も環境の中に

 それぞれの研究分野においては、ときに学閥のようなものがある。ある先生の弟子であることで、自分の立ち位置を保つ心の働きが透けてみえることがある。むろん優れた研究方法を継承していくことは、研究の発展にとって必須である。だがここでも環境への対応という課題は降りかかってくる。師と仰ぐ研究者が向かい合っていた環境と、その弟子が向かい合う環境は同一ではあり得ない。まるごとコピーで済むと思うのは、環境が及ぼす影響を考慮していないのであろう。

 禅宗では師資相承が重視される。禅宗ではブッダの教えを継承したのはマハーカッサパ(大迦葉、摩訶迦葉)とされる。ブッダが庭で説法したのち、花びらをつまんでくるりと回したとき、マハーカッサパだけがにっこり微笑んだ。それを見てブッダが「われに正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相微妙の法門あり。不立文字、教外別伝なり。いま摩訶迦葉に付嘱しおわんぬ」と言ったと伝えられる。拈華微笑ねんげみしょうの故事である。

 マハーカッサパを第1祖として第28祖に当たるのがダルマ(達摩、達磨)である。中国に渡り禅を伝えたので、「西天第28祖、東天第1祖」と呼ばれる。そのダルマが中国を去るにあたって、弟子の中から後継者を選ぶ際の逸話が伝えられている。4人の弟子がそれぞれ境地を述べた。そのうち3人は、「わが所見は、文字に執われず、文字を離れず、しかも道の用になる」などと、それぞれ言葉を用いて境地を述べた。ところが最後に慧可はうやうやしく礼拝をしたのみであった。これを見てダルマは「汝、わが髄を得たり」として、第2祖に決めた。皮肉骨髄ひにくこつずいの故事である。2つの場面で判断の基準が異なる。微笑んだマハーカッサパとただ礼拝のみをした慧可。真理は言葉を超えたところで伝わるとする禅の教えからするなら、どちらの故事も同じことを伝えようとしているのであろう。だが具体的に示された行動は異なる。師資相承といっても、状況は重要であり、すべてが丸ごとコピーされるわけではない。

 師と同じ前提を持ち、同じ方法で臨むというのは、少なくとも現代宗教を対象にする研究者には環境への対応を難しくするやり方である。師を過度に模倣するのは、領域の縄張り意識、師弟関係への固執(これは師の側からも弟子の側からも)などが作用している。それぞれの領域に縄張りを設けて領域侵犯に神経をとがらすようになっては、そのグループの研究発展は望めない。

 世界各地には料理法が数多あまたある。それぞれには材料選択や味付けや調理法への伝統的なやり方があったり、作る人のこだわりがあったりする。食べる側にも好みがある。それが何が人気料理になるかに関わってくる。料理は味覚と関わっているから味覚の研究からすれば、どのような特殊な料理も、味覚の謎を解く手がかりになる。逆にたとえば味覚に関わる進化生物学的研究が進むと、なぜ誰もが甘さを求めるのか。嗅覚や視覚が味覚に大きな影響を与えるのはなぜかの議論が進む。おいしいと思わせる料理に共通点があるのに気付かされたりする。

 音楽にはさまざまなジャンルがあり、多様な楽器が用いられる。国や地域などによってとくに愛される音楽があり、シャンソン、ジャズ、クラシック、演歌、浪花節などと、特徴あるジャンルが生まれた。楽しい曲はたいていの国の人々が楽しいと感じるようだ。悲しい曲は同様に悲しいと感じるようだ。戦いへと向かわせるときの曲は勇ましくなり、軍歌のジャンルが生まれた。音楽が人間の感情に強い影響を与えることは誰もが実感しているはずである。音波が人間の感情に与える研究は、どのジャンルの音楽にも関わっていく。たとえば可聴域を超える高周波、すなわち超高周波の音が人間に与える研究などは、どのように展開するのか非常に興味深い。

 

新しい情報ハブ

 つまり人類が生み出した多様な文化の研究は、その文化の多様性に関わっている脳や身体の働きの研究と手を携えることで、とても興味深いものになる。宗教文化についてもまったく同様である。宗教も世界に多くの形態がある。キリスト教はまとめて1つの宗教として数えられることもあるが、個々の教派を別々のものとするなら、それが数千なのか数万なのか見当もつかない。イスラム教もスンナ派、シーア派くらいは知られているが、実際はかなりの分派がある。日本でも小さな分派にまで研究の手が伸びてきているようで、興味深い研究成果が公表されるようになっている*4。むろん、神道も日本仏教もとうてい一括りにはできない多様な宗教文化の集合体である。これを極論すれば、それぞれの人がそれぞれの信仰を持っているというところにまで行きつく。

 多様な宗教文化の存在にも拘わらず、どの場合でも生じそうな疑問がある。なぜ神を信じる人、信じない人がいるのか。どうして宗教には儀礼が伴うようになったのか。知覚で捉えられることが証明されていない対象、たとえば死後の世界、霊の存在などを固く信じる人がいるのはどうしてか。祟りのような話が普遍的に見られるのはどうしてか。宗教の形態の多様性にもかかわらず、こうした現象と取り組む際には、人間の脳や身体で起こっていることへの着目が欠かせないことが明らかになっている。

 インターネット関連の用語に情報ハブという言葉がある。情報ハブは多くの情報をつなぎ仲介する。多様で無秩序に近い各種の情報が互いを照らし合わす場の役を担える。古代、中世において市場が人々の物々交換のみならず、情報の交換に果たしてきた役割に似ている。多くのつながりを持つノードは情報ハブの機能を果たす。激しく変わる現代宗教を研究対象とする場合は、研究の拠り所とする情報ハブを新たに設けていく試みがとても重要な役割を果たすようになっている。とりわけ多くの研究分野で参照されるようになっている新しい研究成果に関わる情報ハブを感知するのは、いわば研究者のアンテナである。

 宗教文化の研究に脳神経科学やユニバーサルダーウィニズムの視点、進化心理学や進化生物学といった研究分野の参照が必要になってきたと縷々るる述べてきたのは、研究者の情報ハブをどこに広げていったらいいかを見直す時代になったと確信しているからである。異なった研究領域間の情報交換がこれまでになく容易になった時代である。とりわけ現代宗教を対象とする研究者であれば、意識的あるいは無意識的に依存している対象をとらえるフレームないしスキーマを、部分的に変えたり、ときには大幅に変えたりすることにもためらいは不要である。

 

*1:井上順孝『新宗教の解読』(筑摩書房、1992年)。

*2:RIRCチャンネル「日本聖公会で初めての女性主教~英国国教会と日本聖公会~」(「宗教ニュースを読み解く」No.14)を参照。

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*3:たとえば平野直子・塚田穂高「メディア報道への宗教情報リテラシー―『専門家』が語ったことを手がかりに」(宗教情報リサーチセンター編『〈オウム真理教〉を検証する』、春秋社、2015年、所収)を参照。

*4:一般財団法人昭和経済研究所 アラブ調査室のホームページではイスラム教の小さな分派についての研究が紹介されている。

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