宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第8回 善と悪がねじれるシナリオ

『聖なる犯罪者』

 2021年1月半ばにポーランド映画の『聖なる犯罪者』が日本で劇場公開となった。新型コロナウイルス感染症の第3波に襲われている中での公開になったが、かなりの注目を浴びている。タイトルからいささか不穏な印象を抱く人もいるかもしれない。

 少年院を仮出所したダニエルが、たまたまある村に着任する予定であったカトリック司祭に間違われ、これ幸いとなりすましてしまう。前からいるその教区の司祭も村人も、疑いを抱かず彼のミサに集まる。だが、そうこうするうちに、彼は村人たちの間に覆い隠されていた大きなしこりに向かい合わざるを得なくなる。いくつか浮かび出てくる罪の問題が、ありがちな善悪二元論の構図ではない視点で描かれている。実話をもとにしているという。

 昨年の秋、この映画のレビューを書いて欲しいと、日本での配給を行なっている会社「ハーク」の担当者から依頼された。映画館で配られるパンフレット用のものである。興味を抱いたので引き受けることにした。DVDを送ってもらい、じっくりと観たが、日本ではとうていこの類の映画は制作されないだろうなと感じた。宗教的背景が違うというだけでなく、宗教家が人びとの生活の中で占めている役割がだいぶ異なる。それが関係するのか、欧米の映画に比べると、邦画には宗教的な側面から人間の心を掘り下げるという視点の蓄積が乏しい。

 たまたま立ち寄ったカトリック教会で、そこに一人座っていた若い女性に、ダニエルが冗談めかして自分は司祭だという。彼女は最初まともに取り合わないが、ダニエルが持っていた司祭服を示した途端に態度を変える。これに限らず、日本であったらとうてい起こらないだろうなという場面がいくつかある。まずは人口の9割近くがカトリック信者であるポーランドでの出来事であるということに、想像力を働かせないといけない。

 そのような宗教文化の違いもさることながら、人を死に追いやった行為、それに関わったかもしれない言葉、それらが単に悪として排斥されるのではなく、別の形の悪意とそれによってうまれる苦しみが並行して描かれる。教会もまたその悪への関与から無関係でいられない。日々の生活の表面を覆う約束事を引きはがすと、そこには建前として存在していた善と悪との区分の不鮮明さが露わになってくる。娯楽映画にありがちな、大仰な仕掛けと単純な善と悪との対立、といった描き方とはまったく異なる。

 

数多くの映画を紹介する機会に恵まれる

 宗教文化教育の教材について考え始めたとき、映画は作品によってはとても深みのある教材となるという確信があった。具体的にどれを選べばいいのか思案していたが、2000年代半ばに格好の機会に立て続けに巡り会うことができた。

 1つは『宗教と現代がわかる本』(平凡社)というシリーズの創刊である。東京大学文学部の宗教学研究室で少し後輩にあたる渡辺直樹氏から、この本の企画についての相談を受けた。私がセンター長をしている宗教情報リサーチセンターの研究員の協力も得たいということであった。それ以前に同氏が『週刊SPA!』の編集長をやっていたときにも、宗教関連のテーマの連載に少しだけ関わったことがあった。その宗教にアプローチする手法はなかなか興味深いと感じていた。『宗教と現代がわかる本』の趣旨は大いに賛同できたので、いいものを作りましょうということになった。内容を話しあう中に、宗教に関わる映画を紹介するコーナーを設けてはどうかと提案し、私がそのコーナーを継続的に担当することにした。

 『宗教と現代がわかる本』は2007年から2016年まで毎年刊行された。そして「宗教映画・ビデオ・DVD」のコーナーで、毎回10本ほどの宗教関連の映画・DVDを選んで紹介を行なった。数えてみると10年間で合計104本を紹介している。どの映画を選ぶかは任されたので、映画館に観に行ったり、DVDを購入あるいはレンタルして観たりした中から、かなり個人的趣味で取り上げた。

 もう1つは宗教文化教育に役立てられそうな映画についての、コンパクトな解説本の編集の機会である。自分もそうなのだが、宗教研究者には映画が好きな人が少なくないことを以前から感じていた。色々な研究領域の人がいるので、それを多少なりとも反映させてもらって、現代宗教の理解に資するような映画を選んで解説してもらおうと考えた。1つの映画を見開き2頁で紹介する形式とした。簡単なあらすじのあとに、どこが宗教の理解や素養を深める上で見どころとなるかをまとめてもらった。19人に協力してもらい、82本の映画を扱い、その他コラムも設けてテーマごとにいくつかをまとめて扱った。自身でも15本を紹介した。こうして『映画で学ぶ現代宗教』(弘文堂)が2009年5月に刊行された。

 刊行からほどない2009年9月には、國學院大學で開催された国際研究フォーラムで「映画の中の宗教文化」をテーマとし、国外からもパネリストを招いて議論した*1。映画好きの宗教研究者はむろん国外にもいるが、視点は日本人の研究者とやや異なるところもあると感じた。授業に用いるときの難しさは多民族国家では一段と複雑になることを、具体的に示してもらったのも良かった。

 宗教的なテーマを含む映画をコラム風に紹介する機会は2010年代にもやってきた。『中外日報』という宗教専門紙の「シネマ特別席」というコーナーの担当者の一人となり、2012年12月から2018年3月まで54本の映画を紹介した。ここでは新作だけでなく、20世紀後半に製作された興味深い映画もいくつか対象にした。

 

宗教映画と宗教的映画 

 宗教映画と呼ばれるものは数多くある。日本で知られているのは圧倒的にキリスト教関係のものである。半世紀以上前の古典的なものだと、イエス・キリストを描いた『奇跡の丘』(1964年)、アッシジの聖フランシスコの生涯を描いた『神の道化師、フランチェスコ』(1950年)などがある。これらは伝承をそのまま映像化しようという基本的姿勢である。興味深い映画ではあるが、今日でも多くの鑑賞者にインパクトを与えうるものかとなると疑問である。

 本連載の第4回で触れたが、宗教教育のプロジェクトで、1990年代前半に宗教系の学校が授業でどのような教材を用いているかについてアンケート調査を行なった。当時はビデオを授業に用いている学校も多かったが、ビデオ教材には映画が含まれていた。キリスト教系の学校であると『天地創造』、『十戒』、『ベン・ハー』、『キング・オブ・キングス』、『ジーザス・クライスト・スーパースター』などをよく用いているのが分かった。

 これらの映画は宗派教育に役立つに違いない。映像化されたイエスやその弟子たちは、演じる俳優のリアルな姿で想像される。ストーリーは心に焼き付けられるであろう。他方、このような宗教映画とは異なったタイプの「宗教的映画」とでも呼ぶべき映画が数多くある。拙著『グローバル化時代の宗教文化教育』(弘文堂)では、「人生観や自然観の中の宗教性を扱った映画」と「移民の増加と宗教問題を扱った映画」の節で、それに属するとみなしたものを一部紹介した。こうした視点からの映画の中には、宗教家の言動や宗教団体の活動があまり扱われずとも、存外宗教の核心的テーマに迫るものがある。

 『聖なる犯罪者』は偽の司祭が主人公であるから、宗教家が中心であるとも、そうでないとも言える。ミサ、「聖体の祝日」、告解の場面などが描かれる。しかし、それはカトリックの信仰を説明するものでも、その理解を深めさせるものでもない。告解の場などはダニエルへの脅迫がなされる場面として使われている。司祭さらに教会が悪や罪の問題に関わるときの苦渋の決断が、隠蔽されることなく描かれる。

 この類の映画では、それぞれの宗教が規範としてもっている善と悪の価値観をそのまま踏襲しようとはしない。勧善懲悪的なストーリーによるカタルシスも提供されない。宗教の違い、宗教文化の違いがものの見方に影響を与える複雑な局面だけでなく、別の複雑な局面、すなわちあるすさまじい状況に直面したときの人間の心の揺れ動きやある行動の選びとりの底に、一体何がうごめいているのかという問題にも足を踏み入れている。宗教ごとに異なる善悪の判断基準が存在するが、その判断基準は信仰とは関わりのない場面でも人々の心に影響を与えることがある。現代では、あらゆる宗教的価値観が日常生活の場であらわれるだけでなく、マスメディアを介して発信され、SNS上で交錯する。宗教ごとの建前の規範がもっている力は、どれほどの影響力をもっているのか。あるいはどこにどういう形で及ぶことになるのか。

 

一つひとつが手がかり

 先に述べた「シネマ特別席」で『神は死んだのか』(2014年)という米国映画をとりあげたことがある。哲学が専門で無神論者の教授が、大学の講義で「神は死んだ」という主張を繰り広げる。キリスト教を信仰するある学生がこれに反発する。学生は教授から神の存在を全学生の前で証明してみせろと挑発される。反論などできまいと高を括っていた教授だが、図書館から借りた本で必死に論破しようとするその学生に次第に苛立ってくる。他方、教授がなぜそれほどまでに神を否定するようになったかの、個人的な理由が明らかにされていく。

 信仰をもつ者は苦しみを耐えることができるのだということを、同時進行する何人かの人物のエピソードによって示す。それと対比するように、無神論者の教授が恋人に去られ、最後には交通事故死する様を描く。瀕死の状態で道路に横たわる教授に対し、たまたま通りがかった知り合いの牧師は、即死しなかったのは、悔い改めるための最後の機会を神が与えたと教授に改心を迫る。

 個人的にはやや後味の悪い映画であった。「宗教的映画」の装いをまとった「宗教映画」であり、それが後半になって急に透けて見えてきたからである。しかしこういう映画が作られる米国の宗教状況は、きちんと考えていくべきと感じた。「科学」からの宗教への攻勢は非常に脅威だと感じている人々が、とりわけ米国には少なからずいる。それに対してどんなリアクションが生まれているのかは見過ごしてはならない。

 私が「宗教的映画」とみなしているものの多くは、善悪の問題に明快な解答は提示しない。あるいはそうすることを目指しているようには感じられない。世界各地で現に起こっていることに想像力をもって思いを致し、目を背けたくなるような社会問題が絶えることなく続いている現実を直視するなら、明快な解答の提示は無理だと感じる方が自然に思える。

 それぞれの宗教は人間のあるべき姿を理念として提示してきた。そこにおいては善と悪は峻別される。しかし、生物としての人間はたとえ聖職者であろうと、その理念とは無縁の衝動によってたえず突き動かされている。ある信仰を受け入れて生活の中に実践しようとしている人でも同じことである。その衝動が意識的あるいは無意識的に作用することで生まれる矛盾が、どんな姿をまとってあらわれるかを、ストーリーの中に織り込み、考えさせてくれるのが「宗教的映画」だと思っている。

 人間の心の厄介さに対する洞察が少しでもあるなら、一つの作品で鑑賞した人に善悪の問題などに正解が示せるなどとは思わないだろう。それでも、どういう考えやどういう振舞いが、どんな結果につながりやすいかを描くのには、映画はうってつけである。そうしたことを想像するための手がかりを、1時間以上あるいは2時間以上かけて提示できる。ときに製作者の意図さえ超えた形で生まれるそうした手がかりを感じとれると、知らぬ間に自分の思考が鍛えられることになろう。そんな「宗教的映画」は宗教文化教育には欠かせないと思う一方で、どんな風に扱うかが、これまた難しいということを思い知ってもいる。

*1:この国際フォーラムは國學院大學日本文化研究所と科学研究費補助金基盤研究(A)「大学における宗教文化教育の実質化を図るシステム構築」(研究代表者・星野英紀)との共催で開かれた。報告書は2010年2月に刊行されている。

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