宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第13回 「宗教2世」?「カルト2世」?

周りと違うという気づき

 一口に宗教を信じているとか、信仰を持っているといっても、その程度は人によりだいぶ異なる。形だけの信者に近い人もいれば、信仰仲間への付き合い上、たまには教会や支部などに顔を出す程度という人もいる。中には信仰第一の生活を送り、宗教上の指導者から命じられればそれを忠実に守ろうとする人もいる。親元で育った子どもの場合、親の宗教への態度からの影響は避けがたい。宗教にまったく関心のない親は別として、人生儀礼や年中行事の際に宗教儀礼を行なう程度であっても、親の言動は子どもに知らず知らずのうちに影響を及ぼす。まして信仰一筋と呼べるような人が親であった場合、その影響が生涯にわたることもあろう。

 親が信仰熱心であるだけでなく、その宗教が周囲から否定的なまなざしを受ける傾向が強い時に、子どもが長じてから精神的葛藤を抱える場合がある。ただし社会からの否定的なまなざしの度合いは、時代や状況によっても大きく左右されるので、この議論には少し注意が必要である。

 たとえば創価学会にしても、1950年代、60年代の激しい折伏活動をやっていた時期と、支持する公明党が政権与党になっている21世紀とでは、社会の評価もかなり変わった。それでも熱心な創価学会員の家に育った子どもが、ある時期に社会的評価に気づいて悩むという例を21世紀にも見聞きする。2000年代から2010年代にかけて早稲田大学で非常勤講師をやっていた時、講義の他に数年ほどゼミを担当した。20名前後のゼミであったが、その中に創価学会の家に育ったという学生がときおりいて、悩みを打ち明けられることがあった。創価大学以外の大学で高等教育を受ければ、創価学会に対する社会的評価が概して肯定的とは言い難いことに気づく学生もいる。親とどう距離を取ったらいいか悩みを語った学生もいた。

 神職や僧侶の家に育った場合などは、比較的小さい頃から自分の家は周りと違うと気づくようだ。ただ神社神道や仏教宗派が日本社会で占めている位置ゆえに、社会から否定的に見られるという経験は比較的少ないように見受ける。また親が神社やお寺との関わりが深く、氏子総代、檀家総代などをやっているような場合でも、その子どもが自分は特別な家に育ったというような思いはまず抱かない。

 イスラム圏、キリスト教圏の国であれば、親の宗教の影響が子どもに及ぶのは当然になる。そうでない場合の方が問題となる。ただ日本ではキリスト教徒は人口の約1%、イスラム教徒は0.1~0.2%程度であるから、親が熱心なクリスチャンあるいはムスリムであった場合、子どもは、長じてから自分の育った家庭環境を特殊なものと感じる場合も出てくる。

 

「カルト」という語に刻印された悪印象

 小さい頃から親にある宗教を信じるように育てられた子どもが、その宗教のあり方に疑問を抱き、さらにその宗教から離れようとする。そのことに対して強い葛藤を抱いても、親がその宗教に疑いを持つことを許さず、離脱などもってのほかという態度の場合は、精神的に追い詰められるような人も出てくる。

 最近耳にすることが多くなった「宗教2世」とか「カルト2世」という言い方は、親から受けた宗教的影響に対する子どもの立場からの戸惑いや不安を背景にした表現である。自分が小さい頃から教え込まれた宗教的価値観、行動様式への疑念が生じること自体は、どの宗教においてもしばしば見られることである。ただ他の宗教に対する理解の態度を育まず、ひたすら自身の信ずる宗教の正しさのみを子どもに突きつける親の場合だと、子どもの精神的葛藤はかなり深刻になる。自分の信仰と相いれないような情報を遮断し、社会一般に広まっているような宗教文化のあり方さえ攻撃的な批判の対象とするような親に育った子どもが、自分の置かれている環境をいくらか客観視できるようになった時、大きな悩みを抱くことがある。

 宗教2世という表現とカルト2世という表現は重なりあう部分もあるが、後者の方がだいぶ否定的な意味あいが強い。それはカルトという言葉自体が否定的なニュアンスをもっているからである。カルト(cult)という用語がもっぱら宗教社会学の教団類型論で用いられていたのが、警戒すべき宗教集団のような意味で日本社会で広く使われるようになったのは1990年代である。そして1995年3月のオウム真理教による地下鉄サリン事件後、オウム真理教はカルトの典型例とみなされるようになり、カルトという語の否定的意味合いは決定的になった。宗教社会学的観点から、ある団体をカルトと区分することは難しくなってしまった。チャーチやセクトと並べられるような教団類型を示す言葉とは理解されず、あやしい団体というレッテルと見做されるようになったからである。当時、ある全国紙の記者から、「この団体をカルトというふうに我々は書けません。先生がカルトだと言ってくれたら、そう書けます」と言われて苦笑したことがある。批判の衝立になれと言っているようなものである。

 1999年に『若者と現代宗教』(ちくま新書)を刊行したが、ちょうどカルト論議、そしてマインドコントロール論が急速に盛んになった時期であった。若者と宗教の関わりを語るのに、カルト問題を避けて通るわけにはいかないと考え、その時の自分なりの見解を述べておいた。マインドコントロール論の不十分さについても触れた。カルト問題は特定の団体に特化した問題のように受け取っている人もいるが、実際は複雑に入り組んでいる。「いい宗教」「悪い宗教」のように二分法に乗っかれば議論が片付くわけではない。どこに問題の核心があるのか、それを探る手立てを見つけるのは容易ではなさそうだった。

 批判者からカルトと目される団体の中には、正体を意図的に隠して勧誘したり、借金をしてまで高額な献金を迫るような例が少なくなく、これが社会からの批判を招いてきた。それゆえ「カルトに騙されないように」と啓蒙活動する人が出てくるのは分かるし、そうした活動もとくに若い世代に対しては必要である。だが、カルト問題がいっこうになくならないのは、それなりの理由があるに違いない。比較的平和な社会状態を見ているよりも、争いや戦いの激しい社会状態を見た方が、人間の心の動きの複雑さを考える機会を増やす。それと似ていて、「癒しをもたらす」と持ち上げられる宗教現象よりも、「カルト的」と批判される宗教現象の方が、人間の心の複雑さを考える上では多くのヒントをもたらす可能性がある。

 

奥深くまで及ぶ親の信仰の影響

 親が特定の宗教を熱心に信仰していた場合、子どもは学校に通うようになるまでの幼少期にその影響を強く受ける。学校生活を送るようになると、親の信仰を相対的に見る機会が得られるが、多少周囲と異なっていても、親の信仰の影響は依然として強く及び続ける。なぜそうであるかを考えようとした時、脳神経科学、進化心理学などが、ニューロンの結びつきが生じる過程や生物の進化的過程で得られた反応など、ヒントになりそうな知見をさまざまな角度から提起してきている。

 親の信仰がいかに大きな影響を持つかは、実は個人的にも体験がある。小学生の時に否応なく大祓(おおはらえ)の祝詞を覚えさせられ、毎日唱えるように育てられた。父親がその時信奉していた教祖的な人物の主張する食生活に従わされた。神社参拝は珍しいことではないが、たまにとはいえ300段以上ある階段を早朝に上り、拝殿で祝詞を小学生に唱えさせる親というのは、そうそういない。肉食は魂が汚れるという教えがあって、肉類は食卓にのぼらなかった。ただ魚は許されていた。卵は有精卵は駄目だが、無精卵はいいといった変わった解釈もあった。

 自分の親だけでなく、このような信仰生活を送る親しい家族がいくつかあって、皆とても思いやりがあり親切な人たちであったので、嫌なことを強制されているという感覚はなかった。親元にいた高校生の時まで、この生活は続いた。変わったのは大学に入学し寮生活を始めてからである。神棚のない寮で祝詞を唱えることはなくなった。親の信仰内容には高校時代から相当批判的になっていたので、もはやその信念体系に従うことはなかった。しかし肉食をしないというのはその後も続いた。寮食で肉が出た時は傍らによけていた。ある時、一つ上の先輩が、鯨肉が出た時これは鰹の肉だと偽って私に食べさせようとした。後輩思いのいい人だったから、決して意地悪からではなく、くだらない戒律を守っていると思ったのであろう。それでも肉を食べないという習慣は続けた。肉食をするようになったのは、大学院の博士課程に入ってからである。家庭教師をしていた家で、出されたビーフハンバーグを食べないのは悪いと思って口にしたのがきっかけであった。予め肉食はしないと言ってあったのだが、つい忘れたに違いない。小さい時からの親の教化の名残はここまで続いたことになる。

 自分の場合は宗教2世と言うこともできようが、親の信仰からの離脱は漸次進んだので、親から受けた宗教上の影響に悩むという時期はなかった。しかも親はときに信奉する宗教的指導者を変えたので、典型的な宗教2世でもなかった。では宗教2世あるいはカルト2世として苦しむ人たちは、何が原因になっているのか。一つには親による拘束の強さへの反発があろう。親の信仰の影響が長じた子どもにあまり及ばなくなった時、それを親の側がどう受け止めるか。これは宗教一般に起こることである。神職の家に生まれ、親から神職を継ぐことを頼まれても、拒否する人がいる。僧侶の場合も同様である。後を継ぐ子どもがいないと神社や寺院の運営を他人に委ねることになるから、それは嫌だという親がいる。諦める親もいるが、何とか継がせようと、子どもに甘い条件を提供する親もいる。後を継ぐなら、高価な車を買い与える、立派な家を与える親もいると耳にしたことがある。ただこれはカルト2世問題で言われる強制や拘束とは少し性格が違う。懐柔策と言うに近い。

 宗教家を世襲するという必要があるわけでもないのに、親が子どもにその信仰から離れることを許さない場合がある。その強い束縛から逃れようとしても、本人が思う以上にその拘束力は強い。その拘束力の強靭さはどこから来るか。ケースバイケースであることは言うまでもないが、より根源的な視点の一つとして、人間がある情動や認知の仕方を形成し、信念体系を築いていく脳の発達プロセスに目を向けてみる。

 

臨界期

 自分が意識する以上に親の言動の影響は大きいというのは、むろん宗教だけの問題ではない。人間の成長過程で、親を通して生活習慣、さらに人生観、世界観などを習得していくと、その経験は脳内にその人に特有のニューロンの結びつきを生み出す。親が行なうことを疑いなく受け入れ、それを終生の行動規範とするのは、生物にとって自然なことである。幼少期に親から受けた影響が終生に及ぶことは、動物行動学からも興味深い事例が提示されてきた。

 刷り込み(imprinting)という概念は動物行動学者のコンラート・ローレンツ(Konrad Lorenz)によって広く知られるようになった。ローレンツはハイイロガンの雛の研究から刷り込み学習について論じた。生まれてまもないハイイロガンの雛が親鳥でなく人間に接したため、人間を親と思い込んだ例を紹介している。刷り込みという概念が示しているのは、生まれてから最初に接したものの影響の大きさを示唆している。刷り込みがどんな事柄にまで当てはまるかはいろいろ研究が必要だろうが、文化的な構築物にもある程度あてはまると考えていいのではないか。

 ローレンツは動物行動と人間行動の類似性に着眼し、人間のもつ攻撃性に警告を発している。『攻撃―悪の自然誌』(みすず書房、1970年)や『文明化した人間の八つの大罪』(思索社、1973年)などに、その考えがはっきり示されている。『人・イヌに会う』(至誠堂、1966年)などにうかがえるローレンツの観察眼の鋭さは、若い頃感銘を受けたものである。動物行動と人間行動の共通性に関しては、すでにダーウィンが着目していたことだが、20世紀後半に進化論が見直されるなかで、動物行動と人間行動との連続性や類似性には、その後ますます大きな関心が払われるようになっている。

 親の行動の一部は子どもに刷り込まれる。人間の場合は動物と異なり言語を介して親の考えが伝えられるので、複雑な刷り込み形態が生じる。さらに複雑な相互関係が形成される。他者の心的状態を推し量る心の働きは「心の理論」と呼ばれる。通常は4歳頃に心の理論は発達するとされる。相手が何を欲しがっているか、何を心に描いているか、どんな情動にあるかを推測する能力が身につくと、その時々の状況に適応した行動がとりやすくなる。相手が自分の信念とは異なる信念をもつような状況も理解できるようになる。

 心の理論が発達する前段階として「共同注意」が生じるとされる。相手と同じものに注意を向ける能力である。1歳にならないうちからその能力は生じ、自分が欲しいものを指さす行動や大人の視線を感じて自分もそれを見るといった行動をする。乳幼児にとって、共同注意、さらに心の理論の形成過程において、その対象となる人間は、通常は親が圧倒的に多い。親がいつも神棚や仏壇に手を合わせたり、その他の宗教的な対象に向かって祈っている場に乳幼児がいれば、それらが共同注意の対象となりうる。唱える言葉も自然と心の中に刻まれる。またなぜ親がそのようなことをするのかについて推測するようになる。複雑な宗教的信念の話は理解できずとも、親が手を合わせる対象や唱える言葉が、親にとって特別な意味を持つことを理解していく。それを自分もなすべき行動として受け入れることも大いにあり得る。さらにはまた線香の香りなど宗教儀礼で漂っていた香りが、独特の記憶と情報とを形成する可能性もある。

 共同注意が発達する時期は、脳が急速に発達する時期でもある。脳の重量は3歳(5歳説もある)の時に成人の9割にまで達するという。3歳までにたとえば虐待などによって栄養がきわめて不十分であると、取り返しがつかないことになる。これによって脳の成長の臨界期は3歳とする説が生まれた。臨界期という考えは人間の心の発達を考える上でも重要である。ありていに言えば、臨界期までにある能力を獲得するための条件の大半が決定づけられる。言語習得や音楽、さらにさまざまな技能を学ぶのを始めるのに適した年齢というのが論じられる時、臨界期は重要なキイワードとなっている。

 言語学者のレンネベルク(Lenneberg)は、1960年代後半に脳の言語野に損傷を負った患者がその回復に年齢が関係することを報告し、言語学習について臨界期仮説の理論的根拠を出した。思春期までに右脳と左脳の機能分化が完了し、脳の一側化が起こるとした。言語のような複雑な学習になると、その臨界期は思春期くらいまでに延びる。宗教的信念からの影響も思春期までは非常に大きく及ぶことになる。思春期に至るまで親の宗教的信念からの強い影響を受けた場合、子どもがそれから完全に自由になるのが困難なのは、こうした人間の生育過程で脳に起こることが大きく関係すると考えられる。

 

特殊な問題と考えると見誤る

 親の宗教的信念にまったく同調しないまでも、さほどの抵抗感がない場合は、幼少期から思春期にかけて親から受けた影響について深刻に考えるには至らないだろう。しかし親の持っていた価値観とは異なるものにいろいろ接し、親の言動や信念体系に強い疑念を抱くようになった場合には、切り離そうとしてもなかなか切り離せない何かに対して、深い苦しみが生じ得る。幼少期から培われた信念体系を脱するという行為は、それまでに自分の心に刻まれたニューロンの回路の組み直しを意味する。仮にカルト2世の方が宗教2世よりも、親の属している宗教への社会的な批判を強く感じているとするなら、その組み直しの容易ならざることを実感するに違いない。

 思春期の頃たまたま誘われて入信した宗教にやがて疑問を抱くようになった場合と比べても、その組み直しは非常に難航すると推測される。思春期は大脳の前頭前皮質が成熟する時であり、体系だった思考法が整っていく時期である。この時に受けた宗教的信念の影響もまたきわめて大きい。カルト問題の対象になるような教団が大学生を主たる勧誘の対象にするのは、結果的に理に叶った方法をとったことになる。現代日本のカルト問題に真摯に対処するには、高校生や大学生を対象にした宗教情報リテラシー教育が有効と考えるが、その機運は乏しい。そもそもインフラが整っていない。

 親がカルト問題の対象となるような教団に深くコミットしていた場合の子どもへの影響は、思春期に勧誘された教団から受ける影響に比べて、とりわけ情動面において深く静かに広がっている。カルト2世が理性では親の差し出す信念体系を否定したり乗り越えたりしたとしても、幼児期以降、親を介して深く心に培われた情動的な反応は本人が思う以上に深く、長く続いている可能性がある。とりわけ「そんなことをしたら罰が当たるぞ」とか「地獄に落ちるぞ」といった恐怖を呼びさますような親の言葉は、脳の回路に深く行き渡る。私が20歳半ばまで肉食をしないという習慣を維持したのも、ひょっとしたらこの類かもしれない。

 カルト2世が抱く心の葛藤を考えるなら、親が示した信念体系の類だけでなく、幼少期より刻み込まれた情動的反応の形成過程についても、脳神経科学の知見をさらに取り込んでいくことが必要になる。脳の認知回路と情動回路の複雑な関係については、いくつかの説があるものの、大枠においては似たような知見が出されている。脳の機能はきわめて複雑な相互関係を形成している。それを考えてもカルト2世問題は、特別な家庭に育った人のみに出現する特殊な様相の対象として、他の宗教現象から切り離して考えるのは適切ではない。信仰の継承と強要とは紙一重のところがある。宗教問題全般を対象にできるような大きく頑丈な網の目を用意して臨まないと、肝心なところを掬い取れない恐れがある。

 

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