宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第16回 カルト問題の根深さと複雑さの背景

思い込ませるのが巧みな人

 だいぶ前のことであるが、バスに乗っていたら、小学校低学年とおぼしき2人の女の子がなぞなぞ遊びをやっているのが聞こえてきた。1人が「道路をものすごいスピードで走っているバスがいました。どこのバスでしょう?」ともう1人に質問した。聞かれた方は少し考えて「分からない?」と答えた。質問した方が「都バスだよ」と答えを教えた。「都バス」と「飛ばす」をかけたなぞなぞで、心の中で「なかなか面白い」と思った。乗っていたバスが都バスだったので、余計おかしかった。

 小学生の間で流行るなぞなぞも、ときどき傑作がある。先日、スマートニュースに紹介されていたのもそうだった。小学生が母親に問題を出したというシチュエーションであった。おおよそこういう内容である。

 「ハルさんのお母さんには、3人の娘がいます。1番目がナツさんで、2番目がアキさんです。3番目の娘の名前は何でしょう。」

 思わず「フユさん」と言いそうになるところがミソである。聞かれたお母さんもそう答えたらしい。よく考えると、最初にハルさんのお母さんと言っておいて、あと2人の名前を出したので、論理的に考えるなら残り1人とはハルさんのことである。ひっかかる人がけっこういるようだが、これはなかなか興味深い要素を含んだなぞなぞである。最初に1人の名前が明かされ、次に2人の名前が明かされ、最初の1人の名前を問う構造の奇妙さに気が付きにくい。そして春、夏、秋と並ぶ季節の順序が自然と冬を連想させる仕掛けになっている。

 こうした単純な言葉遊びのようなやりとりの中にも、人間が陥りやすい認知の錯誤が絡んでくる。日常生活は大なり小なりの錯誤なしに送ることはできない。誰もが陥る罠のようなものもあるが、それぞれの人が持っている経験が錯誤の原因になることもある。それゆえ、複雑な仕掛けを作らなくても、ごく単純な仕掛けに簡単に引っかかる人もいる。それを悪用している典型が振り込み詐欺である。中にはかなり巧妙なものがあるのが知られているが、そうでなくても騙される人がいる。電話してきた人間を最初に息子と思い込んだりすると、よく考えるとおかしな話が続いても、途中で変だと思わなくなるようだ。

 振り込み詐欺に引っかかった事件の報道を聞くと、どうしていきなりかかってきた電話で、見知らぬ人に何百万円も渡すのかと、たいていの人は思う。だが、最初の段階での思い込みが持つ力はなかなか大きい。似たようなことは誰にでも日常茶飯に起こりうる。最近急速に展開している脳神経科学に目を向けると、人間はもっと自分の認知の不確かさと頼りなさを自覚しなくてはいけないのがよく分かる。

 人間の認知における錯誤や曖昧さ、それに起因する社会的問題はあまたある。宗教研究においても腰を据えて考えなければいけない。とりわけカルト問題、あやしげな霊能者番組、霊感商法といった、宗教の負の面として取り上げられる出来事がなくならない背景を考えようとするときに、この点は是非ともおさえておかなければならない。認知には意識的にコントロールしようとしてもできない側面があるので、とても複雑な話になる。それだけにどこまで分かってきているかに目を配りたい。

 

視覚の限界

 「百聞は一見に如かず」という諺は、実際に自分の目で確かめることの重要さを説いているが、その「一見」が実はそれほど頼りになるわけでもないことを、脳神経科学は明らかにした。視覚に障碍がなければ、外界の情報の約8割は視覚から得ていると言われる。その視覚が騙されやすいとなると、「百聞は一見に如かず」の格言もその足元がだいぶ揺らいでくる。

 視覚は脳のおそろしく複雑なメカニズムによって支えられているが、その複雑さゆえに、ときにミスも起こすし、思い込みや錯覚も起きる。ありふれた錯覚にまったく気づかぬ例は実は多い。誰もが経験していることを例に挙げよう。テレビや映画の映像は動画とも言われるように、実際の動きが再現されているかのように思い込んでいる。だが実際は静止画を次々と見せられている。パラパラ漫画はゆっくり絵をめくると、静止画を切り替えているのが分かり、絵はぎごちなく動いてみえる。ある程度以上の速さでめくると、動きはスムーズになり、静止画が切り替わっているのだとはあまり感じられなくなる。テレビや映画もこの原理を使っている。テレビの場合は走査線を使うので、厳密な意味での静止画が流されるわけではないが、いずれにしても動画というのは思い込みである。

 視覚が騙されやすいことは、錯視をもたらす図や画の例によって如実に分かる。錯視の研究は19世紀半ばに始まり、以来さまざまな種類の錯視が発明された。いくつかの平行線が等間隔で引いてあっても、隣り合った線に傾きが反対の線が一定間隔で並んでいると、平行線には見えなくなるのがツェルナー錯視である。同じ線分の長さでも両端の2つの支線が外向きか内向きかで、長さが違って見えるのがミュラー・リヤー図形である。同じ大きさの円でも周りを囲んだ円がその円よりも大きいか小さいかで、その中心の円の大きさが違って見えるのが、エビングハウス錯視である。これらはたいていの人がどこかで見たことがあるに違いない。下記の北岡明佳氏によるサイトには、こうした多くの錯視が紹介されていて楽しめる。

www.psy.ritsumei.ac.jp

 形だけでなく色も惑わされる。チェッカー・シャドー錯視は、同じ色を違う色に見ていることを示されてもなお、腑に落ちない気持ちになる人がいる。枡目が白と黒の市松模様になっているチェッカー盤上で、白い部分に影がかかるように物を置いても、その白いマス目は黒いマス目とは異なった色に見える。しかし実際は同じ色である。これは具体的に見ないと分かりづらいので、それを示したサイトを挙げておく。

illusion-forum.ilab.ntt.co.jp

 これ以外にもさまざまな錯視の例があるが、なぜ錯視は起こるのか。これを解き明かすのはそう簡単な話ではなさそうなのだが、視覚をめぐるあらゆる問題を考える際に基本的に心得ておかなければならないことがある。それは光の情報が網膜に達してから脳がそれをどう処理しているかである。網膜に入った光の情報は、明るさ、波長、対象の形や動き、キメといったものが、脳内の別々のルート、別々の領域で処理される。そして最終的にそれらの情報が統合され、過去の記憶から得られた情報とも照合しながら対象を再構成する。瞬間瞬間になされている無意識的なこの基本的仕組みを理解しないと、錯視のみならず、視覚をめぐる不思議な現象を理解するときの入口には立てない。

 このややこしい仕組みは、進化の過程でそれなりの理由があって出来上がったのだろうが、視る行為には克服できない弱点がある。網膜に到達した対象の情報はほぼ二次元なのに対象は三次元なので、いわゆる不良設定問題が存在する。与えられた条件だけでは解が1つに定まらない。通常はこのことは気にされないが、その弱点はちょっとした実験で明らかになる。筒の中にある球状のものを覗く装置を作る。それがピンポン玉くらいの大きさなのか、ソフトボールくらいの大きさなのか、それともバレーボールくらいの大きさなのか、他に参照できる情報がないと分からない。予めピンポン玉だと伝えられていたときと、バレーボールだと伝えられていたときとでは、対象までの距離が大きく違って見える。バレーボールだと伝えられた方が、ピンポン玉と伝えられたよりもずっと遠くに見える。そのとき与えられた情報によって、脳は対象までの距離を異なって認知する。

 また過去に獲得したさまざまな認知の記憶が、奇妙な感覚を生むことがある。同じ模様のキングのトランプだが、大きさが倍ほど違うトランプをそれぞれ右手と左手に持って腕を伸ばす。そして片目で見ると、小さなトランプをもった腕の方が少し長く遠くまで伸びているような錯覚が起こる。腕の長さはほぼ等しいと知っているから、片目で見てもトランプの大きさの違いは認識できる。しかし、通常、トランプのセットは同じ大きさであることも知っている。異なった大きさのトランプのセットを手にする経験はそうそうない。従って、片目で見たとき、トランプは同じ大きさだという記憶が少し作動すると手の長さの方を変えてしまう。

 話が分かりやすくなるので視覚に例をとったが、五感すべてに錯誤は起こる。嗅覚の錯誤について、だいぶ昔、テレビ番組でスタジオに数十人集めて実験をやっていた。参加した人たちに目を閉じてもらい、これからレモン(だったと思うが定かではない)の匂いがしてきますから、感じた人は手を挙げてくださいと告げる。しばらくすると何人かが手を挙げ始めるが、実は何も匂うようなものは使っていなかったと種明かしがなされた。匂ってくるに違いないと予測することで、存在しない匂いが感知されてしまった。

 

見えない存在の感知

 錯視、錯覚はアートに使われており、ちらりと見て思い込んだ対象の姿と、実際のものとが大きく異なって驚くことは、ちょっとした楽しみにもつながっている。罪のない錯視と言える。だが宗教現象に話を広げていくと、この認知における歪みや錯誤は宗教において根源的とされている事柄の理解に関わってくるし、社会的に批判される厄介な問題にも関連している。根源的な事柄とは、神、天使、悪魔、精霊、魂、幽霊など、通常は存在が確認されていないものを見たといった人の体験をどう受け止めるかである。厄介な問題とは、前々回、前回にも触れたカルト問題などである。

 国学院大学神道文化学部で学部のゼミを担当していた頃、ある年のゼミで一人の男子学生が自分は霊が見えると言った。今でも教室のその辺に見えたりするのですとも言った。そこで霊が実際にいるかどうかは別として、他の人には見えないものが自分だけが見える現象は珍しくないと教えた。ラマチャンドラン他『脳の中の幽霊』とか、オリヴァー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』といった本もあるから、少し脳科学関連の本を読んだらどうだと勧めた。その学生は言われた本を読んだようで、その後は自分には特殊な能力があるとは主張しなくなった。脳科学に興味を抱いたとも言っていた。

 神や仏、イエス・キリストや聖母マリア、あるいは如来や菩薩の姿を見たと言う人は少なくない。幽霊を見たことがあると主張する人はもっと多い。精霊の類は民俗信仰にはよく登場し、今でもその存在を信じる人は一定数いる。1990年代前半のことだが、沖縄に調査に行ったとき、今は解散してしまった「いじゅん(龍泉)」という教団の人たちと会食する機会があった。教団行事の後であったので宴会に近かったが、その信者の何人かが、沖縄の民俗信仰ではよく知られているキジムナーについての経験を語り始めた。「木の根元近くにいた。はっきりと見た」と、キジムナーは存在するのだと力説した。酔った勢いで口にしたのでもなく、真剣な語りであった。

 このような経験は宗教調査では時折あった。龍の姿を見たと述べる教祖もいた。今年(2021年)6月に死去した神命愛心会教祖の小松神擁氏と、だいぶ以前になるが面談したことがある。同氏は「仏壇の脇の窓からヒューと風を切って観音様が、龍体に乗って入ってこられたんです」とその宗教体験を話した*1。確信をもって語られるその経験は、少なくとも主観的にはリアルなものであったと言うしかない。主観的な世界への立ち入りは限界がある。だが脳内で起こっている視覚のメカニズムについての研究はどんどん進んでいて、それを参照すると、これまであり得なかったようなこともあり得る話に転じたりする。

 宗教研究においては、こうした語りはとりあえずそのまま受け止めるのが普通である。それは見間違いではないかとか、正常な心理状態にはなかったのではないか、といった否定的な見解を前面に出すことはあまりしない。民俗信仰を対象にする場合だと、精霊や霊魂についての語りは文化的な産物と見なされ、その上でいつ、どこで、どのように現われたかを聞き取る態度が支配的である。

 2011年3月11日に起こった東日本大震災のあと、津波によって多くの死者が出た地域では、幽霊を見たという経験が多く寄せられたようである。そうした語りをまとめた書籍も出されている。この場合も、なぜそのような錯誤が起こったのかを追究する研究よりも、そのような心に至った背景に注目する。死者とのつながりの証拠として研究する人もいる。

 これらは霊魂や幽霊などは実在するのか、という問いと直接向き合うものではない。そうした物理的問題よりも心理的な問題に焦点を当てている。幽霊を見たり見なかったりすることが、その人のどのような生き方、あるいは価値観とかかわりをもっているかという問題は、しかし、認知における錯覚や誤認の問題と無関係ではない。視る行為は単に外界の視覚情報だけでなく、その人の経験によって脳内にある「現象のとらえ方」と深く関係しているからである。


見間違いと思い違いの是正

 見間違いとか見落としは、注意しないと必ず起こる。網膜には色を見分ける錐体細胞と、明るさを見分ける桿体細胞の2種類があるが、両者は一様に分布しているわけではない。錐体細胞は中心窩(ちゅうしんか)に集中している。中心窩は1㎜ほどの直径なので、外界を見たとき、中心窩で捉えられる範囲は腕を伸ばしたときの親指2本分くらいである。中心窩には錐体細胞が集中しているので色を見分けることができるが、周辺部では錐体細胞はきわめて少なく、明るさを認識する桿体細胞が主体である。だから視線を固定させると周辺の視覚情報はほぼモノクロで捉えられている。だが、日々の生活で周囲は常にカラーの世界のように見える。それはサッカード(あるいはサッケード)と呼ばれる目の素早い動きで視線が移動し、それで得た情報を脳が記憶し、カラーの世界をいわば「作っている」からである。

 瞬間瞬間には圧倒的にモノクロの風景が情報として入力されるにも関わらず、ずっとカラーの世界にいると認知しているわけだから、いわば自分で自分を騙しているようなものである。この騙し行為によって、結果的には外界をおおよそ再現できている。こんなトリッキーなことをやっているから、見落としや見間違いが起こるのは当然である。でも少し注意を向けることで誤りはたいてい是正できるので、通常は大きな問題は生じない。

 しかし、天使の姿を見た、幽霊を見たとかといった話になると、注意すれば気が付くだけでは片付けられなくなる。多分中学生の頃だった。家にあったある雑誌で読んだ短編が非常に印象的で今でも覚えている。その頃はテレビが家にあるわけでもなく、夜になっての楽しみは本を読むことくらいであった。図書館の本だけでなく、親が読んでいた歴史愛好家を対象にしたような月刊誌があれば目ざとく見つけて読みふけった。その短編の何が印象的だったかというと、「最期の一念」の扱い方であった。

 記憶をたどれば、おおよそ次のようなストーリーであった。ある武士の家で、罪を犯した男を斬首することになった。命を乞うも許すわけにいかず、家来に首を切り落とすように命じる。すると男は、このような目に合わされた恨みは忘れない。死んでも必ず祟ってやると呪う。それを聞いた武士は、祟れるのなら、男の目の前にある庭の石にかじりついてみよと言い放つ。家来が男の首を刎ねると、首は石の方にころがっていき、石にかぶりと嚙みついた。その光景をみていた者たちは、皆恐れおののいた。

 しばらくして、その家の近くに男の幽霊が出るという噂がたち、家来たちは怯えた。主人にそれを訴えたところ、主人は家来たちに答えた。最期の一念は強いが、あの男は呪ってやるという思いを、石にかじりついてやるという思いに変えた。だからそれは叶ったので、祟ることはない。これを聞いて家来たちは安心した。そうして心が落ち着くと、幽霊と見えたのは柳の木の影だと分かった。

 そのときはオリジナルな話だと思っていたが、随分たってから、この話には種本があることを知った。小泉八雲の『怪談』に収められた「駆け引き」という短い話である。多少脚色してあったのだろうが、記憶と照らし合わせると、話の筋としては、まさに「駆け引き」の内容に合っていた。

 何が印象深かったか。最期の一念のようなものを信じる人に対し、それを否定せず論理的にかわすやり方の巧妙さである。恨みを残して死んだ人が祟る話は、有名な四谷怪談をはじめ数多くある。非業の死を遂げた人が死後も安らぐことはないと思うのは生きている人間の側である。死んだ人が安らいでいないかどうかを確かめるすべはない。家来たちは恐怖にかられているときは柳の木の影を幽霊と怯えた。しかし説明を聞いて安堵すると、柳は柳に見えるようになった。対象を見るときの心持ちが変わると、対象もまったく異なったものになった良い例である。

 

認知の変換はどの方向にも起こる

 「キサーゴータミーの説話」として知られている仏教関連の有名な話がある。幼いわが子を亡くしたキサーゴータミーがブッダのもとを訪れ、何とかしてわが子を生き返らせてくれと懇願する。これを聞いたブッダは、「芥子の実をもらってくれば生き返らせることができる」と告げた。すぐ探しに出かけようとした彼女にブッダは付け加える。「ただし、その芥子の実は今まで誰も死者の出ていない家でもらわなければならない。」

 芥子の実くらい分けてもらえる家はすぐ見つかると思い、キサーゴータミーは家々を訪ねるが、やがて2番目の条件を備えた家が決して見つからないことに気づく。つまり死が誰にも訪れることに思い至る。そして彼女は出家した。

 ブッダは悲しみを持って訪れた女性に対し、少し回りくどいやり方かもしれないが、その悲しみを乗り越えるすべを身をもって体得するようにいざなった。自分の境遇を客観的に眺め、異なった自己理解に至らせるやり方である。ところが現代日本には、さして強い不安や恐怖を抱いて生活しているわけでもない人に、宗教団体であることを隠して近づき、恐怖を募らせ多額の献金を迫る団体が出現したりする。どちらも認知の変容をもたらすわけだが、目指すところは、まるで真逆の方向になっている。

 認知が大きく修正されるとき、それに付随して喜んだり、悲しんだり、絶望したりと、さまざまな感情が喚起されることもある。ブッダがなしたように、苦しみをもたらしている認知を、苦しみから解放するような認知に変えられるなら、宗教によって救いが得られたと感じる人が出てくる。宗教がどの社会でも見出される一つの理由ではないかといった方向に考えが赴く。ところがカルト問題ではこれとは逆向きになるような作用が生じ得るにも拘わらず、この種の行ないもまた絶えることがない。現代日本において霊感商法と呼ばれているものは、その典型である。全国霊感商法対策弁護士連絡会は1987年に結成された組織だが、こうした弁護士の組織が生まれるほど、霊感商法と呼ばれるものは社会的問題を引き起こした*2

 恐怖を作り上げ、それによって相手の心を操ろうとしたり、献金を迫るような行為をしたりする例が少なくないことを知ると、宗教は人間の社会や文化にとって必要だから存続しているとだけ考えているわけにはいかなくなる。冒頭に述べたなぞなぞでも分かるように、他者から発せられた問いかけの言葉は、ときにその人の認知の弱点に挑戦する。問いかけに宗教的な要素が含まれれば、自分が生きていく上で築いてきた半ば無意識的価値観や、自分の現在の状況に対して漠然と抱いていた認知のあり方が大きく揺さぶられる人が出てくる。それがどのように作用するか分からないところが難しい。宗教に絡んだ会話がタブー視されたり、忌避されたりしがちなのは、こうした面での衝撃が少なくないことが体験的に知られているのが一因と推測する。

 どこからがカルト問題か、その境界線をきれいに引くことはできない。境界領域になるような事例はあまたある。ただ典型的な悪用の例を踏まえることによって、どのようなときにあやうい問いかけがなされているかを察知するよすがにできる。どれほど計算づくでなされているか分からないが、詐欺集団もそうであるように、人間が陥りやすい錯誤を巧みに利用している。だとすれば、人間の認知の抱える弱点についての自覚を強めることが必要だろう。大事なことに気づかされたのか、それともうまく騙されたのか。そうしたことを判断するときの手持ちの駒が増える。

 視覚でもっとも顕著に了解できる錯誤や誤認は、五感だけでなく、理性と呼ばれる働きでも生じている。記憶として蓄積されているその人の認知の仕方そのものにも、すでに誤認のパターンが紛れ込んでいるからである。宗教のもっとも根源的問題やカルト問題のような厄介な問題に及んでくる議論を認知科学は提起していて、目が離せない。次回は最近注目されるようになった、より包括的な議論に目を向けてみたい。

 

※次回は11/10(水)更新予定です。

 

*1:このときの面談内容の概要は『The Bigman』(世界文化社)という雑誌の1990年12月号に掲載されている。

*2:弁護士が霊感商法問題について論じたものとしては、紀藤正樹『決定版 マインド・コントロール』(アスコム、2017年)、山口広『検証・統一協会=家庭連合』(緑風出版、2017年)などがある。

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