宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第2回 継承か伝染か

突然の変貌に宗教的理由があるとき

 人が変わったようになったという表現がある。いい意味にも悪い意味にも使われる。人が変わったようになったという場合は行動だけでなく、顔つき、目つきなどでも判断される。

 大きな環境の変化があれば、行動や言葉遣い、身だしなみなど、いろいろな面にその影響があらわれるのは当たり前である。進学、留学、入部、就職、転職、結婚、離婚、出産、近親者の死去、転居等々。そんな折にその人の印象が少し変わったように感じた経験は誰でももつはずだ。そうではなく、何か特別の体験をしたことで短期間にすっかり人が変わったようになり、周囲の人がいぶかしがる場合がある。とくに価値観がガラッと変わったように見受けられると、何があったのだろうと気になる。

 そのような突然の変化の理由の一つに宗教への入信がある。それまでは宗教にまったく関心がなかったり、反宗教的であったりしたような人が、ある体験をきっかけに、宗教の世界に目覚めてすっかり人が変わってしまう。これは宗教研究ではよく回心論として扱われてきた。ウイリアム・ジェイムズは回心の研究をしたことで有名である。『宗教的経験の諸相』という20世紀初頭に刊行された本の中で多くの事例を扱っている。ジェイムズは回心の特徴を「宗教的実在をつかまえる」と表現した。

 世界に広がった宗教には、語り継がれる有名な回心の例がある。キリスト教でいえばパウロが最初期の例である。イエス・キリスト亡き後、パウロはキリスト教徒を迫害していた。だがイエスの声を聴き突然目が見えなくなったパウロは回心し、以後伝道に生涯を捧げた。

 

良い宗教、悪い宗教という物差し

 回心論は主にキリスト教を対象にした研究で信仰に目覚めるという脈絡で論じられることが多かった。仏教では回心と書いて「えしん」と読むが、これもまた仏道への帰依を示す。ところが20世紀最後の四半世紀あたりに、世界各地でいわゆるカルト問題が相次いで起こり、異なった角度からの議論が目立ってきた。宗教に目覚めるというより、宗教に誘い込まれるという視点である。洗脳とかマインドコントロールといった言葉が多用されるようになった。宗教への関わりの負の側面に注意が向けられた。

 皆が幸せになることを目指して活動していると思われる宗教団体と、組織を守るためには犯罪をなすことも辞さないという宗教団体を目にすれば、宗教の善悪という社会的評価が浮上する。宗教について研究するときには、個々の宗教に対してなされる社会的評価を度外視できない。日本ではオウム真理教による1995年3月の地下鉄サリン事件以後、カルト問題を批判的に論じる研究者、ジャーナリストが急激に増えた。

 「良い宗教か悪い宗教か」という物差しは、濃淡の差はあれ、研究者の心のどこかにある。ただその物差しが何を基準にしたものであるかと確かめようとすると、物差しは明確な形をもっていないことに気づかされる。固い信念をもっている信仰者であればどうか分からないが、対象から何かを探りあてようとする研究者にとっては、価値の扱いは常に悩ましい。それぞれの宗教が前提としている価値観を受け入れるという方法もある。受け入れたふりをするというのもある。あえてその問題は少し横に置いておくという手もある。エポケーと呼ばれる態度もこれに近い。価値中立という立場も似ている。価値から自由になることが可能かという批判はあるが、一応その努力をしてみると、人が変わったようになる現象に対して、どんなふうに向かい合うことになるか。

 どのようなタイプの宗教的世界であろうと、なぜ突然魅せられるようにその世界観がその人にとって決定的な意味を持つものになるのかは、奥行きの深い問題である。善悪は一筋縄ではいかない。悪の中に善があり、善の中に悪があるというのがむしろ現実である。甲にとっての善は乙にとっての悪というのも珍しくない。

 

家庭での信仰継承が宗教の文化的継承を支え

 宗教への回心とか、ある宗教団体への突然の入信というのは、研究者の関心を呼ぶ出来事であるが、世界に何十憶人といる宗教信者の大半は、親の信仰を受け継いでいる。育った家庭の環境は絶大である。親がその地域共同体の宗教や宗教文化に溶け込んでいれば、信仰の継承は地域の文化をまるごと継承する作業の一環となる。現代のユダヤ教やイスラム教では布教活動はあまりなされない。家庭における信仰の継承が基本なので、ことさら布教する必要がない。子どもは周囲で行われている宗教的実践を、さしたる疑問を抱かずに成長の過程で受け入れていくのであろう。

 日本でも親や祖父母が毎日神棚に祈っている家庭、仏壇に手を合わせている家庭、あるいは毎週一家でキリスト教会に通う家庭で、宗教的な雰囲気を身近に感じて育った人が、信仰を持つようになる割合は高い。誰かに勧誘されなくても、いつの間にか家族の宗教を受け入れて育つ。

 神道系や仏教系の大学には神職や僧侶の後継者を養成することを目的とする学部や学科がある。親が神職とか僧侶であった場合、少なくとも一人は後継者となることが期待されるという現代日本の状況を反映している。こうして大学卒業後、神職や僧侶になったとすると、一般的に言えば世襲したわけである。宗教家の子どもでなければ、神社の氏子とか仏教宗派の檀家としての振る舞いを、親から継承するというような意識はあまりない。日常生活にそれほど制約が生じるわけではないので、社会習俗として受け入れる感覚であろう。

 宗教の継承は遺伝子の継承ほど正確にはなされないが、信念や儀礼は親から子へとかなりの程度いわば「複製」される。文化の継承は模倣が基本であることを考えれば、これは何も不思議ではない。ただし、近代日本には家族における信仰の継承が、地域社会における宗教文化の継承とは乖離する場面が出てきた。キリスト教や新宗教の場合にそうしたことが起こった。「信仰二世」がときおり抱える葛藤はここに一つの根がある。

 

疫学への比喩とミーム論

 宗教の広まりを伝染病の広まりに譬えるという大胆な発想をしたのが梅棹忠夫である。梅棹は「宗教はもちろん病気ではない。しかし、その外的側面を見るかぎり、宗教と伝染病の間には、かなりの類似点がある」と述べている(梅棹忠夫『文明の生態史観』)。そしてエンデミック宗教とエピデミック宗教という区分をした。風土病と流行病に譬えたのである。民俗宗教などはエンデミック宗教に含まれ、世界宗教と呼ばれるものはエピデミック宗教となろうが、梅棹はエンデミック宗教とエピデミック宗教の関係をダイナミックにとらえている。エピデミック宗教がエンデミック宗教に転じることもあり、その逆もあるとしている。

 梅棹が疫学的観点から宗教を見たのは、「伝染する」つまり人から人へと広がる局面に注目したからである。宗教と比較するに際して、伝染病について次の5つの点を指摘した。病原体があること。それが広がること。病原体が侵入しても発病する人とそうでない人がいること。広まりに社会環境が影響すること。より一般的な環境が関係すること。これらを宗教の広まりにも当てはめようとする。

 宗教が人を介してどのように広まるのかを考えるとき、これはなかなか示唆するところの大きい分析のフレームである。ここでは宗教を信じる人がどのような人であるかよりも、宗教はどのような経路でどのような条件のときに広がるかという視点に重きが置かれている。

 まったく別の研究分野から出されたものであるが、英国のリチャード・ドーキンスが提起したミームという視点は、人よりも人を宿主にしているもの(ミーム)に主眼を置くという点で、より徹底した視点の転換である。ある信念はミームの一種であり、それが人を媒介して生き続けるという見方になる。1970年代に進化生物学者が提起したこの考えは、西欧ではやがて宗教研究者にも影響を与えるようになった。21世紀にはいると、関連する書籍が日本でも次々と翻訳されるようになった。これについてはいずれ触れたい。

 

 

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