宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第17回 「予測する脳」はどんなとき惑わされるのか

6人のカメラマンが描き出す同一人物

 2015年にキャノン・オーストラリアが行なった大変興味深い実験がある。6人のカメラマンに対して、1人の同じ人物の写真を撮ってもらうように依頼する。事前にそれぞれのカメラマンには撮影される人物について異なった情報を与える。それぞれ「大金持ち」、「元アルコール依存症患者」、「超能力者」、「元犯罪者」、「ライフセーバー」、「漁師」である。そのような異なった事前の情報を得た各カメラマンはどのように撮影したか。その様子は下記のユーチューブで見ることができる。いずれのカメラマンも「それらしく」撮影している。

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 事前にその人が大金持ちと言われるか、あるいは元犯罪者と言われるかなどによって、出来上がった写真は大きく異なっている。それはカメラマンが大金持ち、あるいは元犯罪者などに抱いているイメージの反映である。予め抱いていたイメージに沿った姿に描き出そうとする。人間の心理を非常に巧みにあぶり出すような実験だが、そのテーマはおとり(decoy)であった。

 与えられた情報によってその人物を見る目が変わるというのは誰しも体験しているだろう。テレビで犯罪を犯した人の顔写真が出ると、「悪そうな顔をしているよね」などと口に出す人も多い。学歴や職業を聞いたとたんに、相手の評価をガラリと変える人もいる。同じ服装で同じ顔をした人でも、与えられた情報によって見る目が大きく変わる。その場において得られた知覚情報だけでなく、脳内に記憶として蓄積された記憶とか判断基準といったものが、対象を瞬時に評価する際にさまざまな作用を及ぼす。 

 キャノンの試みはカメラマン一人ひとりの個人的体験の違いを反映させてはいるが、同時に社会的に構築されているイメージがどう反映されているかを探る手がかりを提供している。大金持ちは普通は社会的にはプラスの評価になろうし、ライフセーバーもそうだろう。一方、元アルコール依存症患者や元犯罪者は明らかにマイナスの評価である。超能力者や漁師はプラスとかマイナスという軸では測りにくい。そうすると、たとえば教師とか宗教家とか伝えておいたらどのような撮り方をしただろうかと、少し気になったが、こうした対象であると社会的に構築されているイメージは少しバラつきが大きいかもしれない。

 社会の中に漂っている職業、身分、社会的地位などに対するイメージは、自分の身の周りの人物の判断にも影響を与える。だがそれは付き合いの浅いうちであり、長く深く付き合うようになると、通常は相手の人柄など個性に即したイメージが形成されていく。もっとも、長い付き合いになってからも、ずっと社会一般に漠然と広がっているイメージに左右されて、職業や肩書でしか相手を見ない人も稀には見当たる。

 自分なりの相手へのイメージが確立すると、今度はそのイメージとそぐわないような事態に遭遇しても、従来のイメージが崩れにくいということが生じやすくなる。自分が信じている宗教上の指導者に対する信者側のイメージの場合もそういう傾向が強いのではないかと感じる。自分がすべてを見通す教祖、非常な人格者と思える神父や牧師、あるいは神職や僧侶、そういった人が、あるとき社会から大きく批判されるような発言をしたり行動をしたりしても、そのことを大したこととは受け止めない傾向が見られるからである。典型的なのは、自信をもって述べた教祖の予言が外れたとしても、その教祖の言葉を信じ続けるような場合である。カルト問題には、人間のこの心の働きが大きく関わっている。

 

認知的不協和理論の先見性

 いったん構築された信念の揺らぎにくさを、社会心理学者のフェスティンガーは認知的不協和理論で説明しようとした。かいつまんで言えば、人間は2つの認知の間で不協和があると不協和を解消させるように考えたり行動したりすると考える。喫煙者とそうでない人で「煙草は肺癌のリスクを高める」という説を信じる割合に顕著な差があった実験結果を1つの論拠とした。喫煙者にとって、その説は認知的不協和をもたらす。自分が喫煙しているという事実と、肺癌のリスクが高まるという説は心に不協和をもたらす。不協和を減らすには禁煙するか、その実験結果は間違いだとするのが代表的な対処法である。ヘビースモーカーでも長寿の人がたくさんいるとしたり、喫煙はリラックス効果があるなどとするのも、やはり不協和を減じるための策である。

 禁煙したくないので、その説は根拠がないと考えて不協和を減らそうとする人は、予言が外れても教祖を信じ続ける信者たちの心理状態とパラレルにとらえられる。これまでの習慣を改め禁煙するのが簡単でないように、今まで信じてきた教祖への信頼を捨て去るのも簡単ではない。フェスティンガーらは認知的不協和理論を確かめるため、1950年代に女性教祖に率いられたUFOカルトの潜入調査をしている*1

 フェスティンガーらの著書では、女性教祖はキーチ夫人という名にしてあるが、キーチ夫人は地球外の存在であるサナンダからのメッセージを信者たちに伝える。やがて終末色の強い予言を述べるようになり、「アメリカの国は、沈下により真っ二つに引き裂かれることになる」と告げる。そして世界が終わる直前に空飛ぶ円盤が、選ばれた人々の救済に訪れるともした。むろん予言は成就しないわけだが、予言が外れても信者の多くはキーチ夫人を信奉し続ける。「夜を明かして座っていた我々が大いなる光を放っていたので、神がこの世を破壊から救ってくれたのだ」というキーチ夫人の説明を受け入れる。

 米国におけるUFOカルトは、キリスト教の終末論や携挙(rapture)*2という観念と関わりがある。日本のUFOブームには見られないような要素が含まれており、社会的に根の深い現象である。終末論は米国の近代のキリスト教系の新しい教団の形成とも関わっている。19世紀前半、ニューヨーク州に住んでいたウィリアム・ミラーが旧約聖書のダニエル書9章を根拠に1943年に終末が来ると予言した。むろん予言は外れた。ダニエル書9章24節から26節にかけて次のようにある。

あなたの民と聖なる都について/七十週が定められている。/それは、背きを終わらせ/罪を封印し、過ちを償い/永遠の義をもたらすためであり/また幻と預言を封じ/最も聖なるものに油を注ぐためである。
あなたはこれを知って、悟れ。/エルサレムを復興し再建せよとの言葉が/出されてから/油注がれた君が来られるまでが七週。/また六十二週たつと、その苦しみの時代に/広場と堀は再建される。
六十二週の後、油注がれた者は絶たれ/彼には何も残らない。/都と聖所を次の君主の民が破壊する。/その終わりに洪水があり/戦いの終わりまで、荒廃が定められている。

 予言は外れたのだが、ミラーを信奉していたサミュエル・スノウは計算をし直し、計算違いがあったとして終末は1年後の1944年とした。この予言もまた失敗し、これを信じていた人の間では「大いなる失望(The Great Disappointment)」が起こった。しかし、これを切り抜けるための説明がその後も複数出された。イエス・キリストは再臨したかったが、人間の側にその準備ができていなかった。安息日などの戒律をきちんと守っていなかったという説明もその1つである。それを受け入れる人たちもいた。あるいは新しい終末の時を示す人たちもあらわれた。エホバの証人(ものみの塔)の創始者チャールズ・T・ラッセルは、終末は1874年だとした。その後もエホバの証人では終末の年は繰り返し修正され、現在は日時を特定していない。

 予言が外れるというのは教祖や宗教的指導者にとって致命的と思われるが、それによって団体が縮小ないし消滅することもあれば、むしろ組織が拡大することもある。教祖や宗教的指導者が間違っていたと考える人よりも、理由があって外れたという説明を受け入れる人が少なくないことを歴史は物語っている。認知的不協和理論はこうした現象の解釈によく用いられてきた。

 

なぜいったん思い込むと修正が難しいか

 終末予言は米国だけでなく、20世紀末の韓国でも起こった。1992年にタミ宣教会の李長林(イ・チャンリム)牧師が、10月28日に終末が訪れ携挙が起こると予言した。それを信じた信者たちに多額の金を拠出させていたことが分かり、詐欺罪で有罪となった。その1か月ほど前に李牧師は逮捕されていたにも関わらず、予言を信じた人たちが予言成就の日のはずであった10月28日に、続々とタミ宣教会にやってきたのである。

 これらの事例に接すると、なぜそのような宗教的リーダーを信奉するのか、首をひねりたくなる人が少なくあるまい。このような事件はきわめて稀であるにしても、他の人から見て根拠のなさそうな予言を信じ込むという現象は意外に多い。人間の認知のあり方についての研究は、誰もが不安定な認知の中に生きていることを明らかにしてきている。宗教現象はそれが極端な形であらわれやすい。それには理由がある。

 宗教的信念と呼ばれるものは、一般的には証明できない事柄を中核に含む。神の存在、天使や悪魔の存在は、少なくとも科学的方法と呼ばれるものでは証明できない。といって否定するすべがあるわけでもない。目の前に見えるモノが固体か液体か、どう動いているか、どんな性質のものかなどは、確かめる手段がいくつかある。また人や動物がどう動くか、どういう反応をするかは、予測が可能であり、予測が当たったか外れたかも確かめられる。科学的な仮説は間違いと分かることもあるが、その場合は新しい仮説を採用したり探したりする。

 しかし、宗教における崇拝対象などはそのような手続きの対象にはならない。対象を確かめる手段がなくても信じる人がいるのだから、この教えは正しいという主張が生まれる。宗教的指導者は、確かめる手段のないものについて語るから、そのことが特有の問題を生む。

 この連載では何度かカルト問題に触れている。洗脳やマインドコントロールという用語は、信者を「惑わすようなテクニック」への注目である。最初に宗教名を名乗らずビデオセンターに連れていく。深い人間関係ができてから宗教であることを明かす。最終的には高額な献金を相手の経済状況など考慮せず迫るなどのやり方を組織的に行なっている場合は、その手法が批判されている。勧誘する側のテクニックだけでなく、勧誘される側の心を理解しようとした場合、認知的不協和理論は応用できる局面が広い。それは人の心を左右するテクニックにも応用が可能な理論であったため、米軍もベトナム戦争に際して兵士にそれを利用したとされる。フェスティンガーはそれを知って研究の世界から遠ざかったと、米国滞在中に彼と親友であった経済学者の宇沢弘文が朝日新聞で述べている*3

 この認知的不協和理論を包み込み、またダマシオが主張するホメオスタシスについての考えとも連接している非常に興味深い理論が2000年代半ばに登場した。それが「自由エネルギー原理」(Free Energy Principle、以下FEP)である。

 

自由エネルギー原理

 FEPという考えを提起したのは英国の神経科学者カール・フリストン(Karl J. Friston)である。概要を知るとなるほどと思うが、それを論じる数式の理解は文系の人間にとっては容易ではない。数式の理解はおぼつかないにしても、展開されている話の道筋が説得的なのは確かである。FEPは、知能、知性、賢さとはどのように定義され、最適化され、実装されているかという問題に答えようとする。知能をシンプルな原理から数理的に説明しようとし、生物の活動を総合的に解き明かそうとする。知覚と行動と学習の統一原理とされている*4

 フリストンによればFEPとは「いかなる自己組織化されたシステムでも、環境内で平衡状態であり続けるためには、そのシステムの(情報的)自由エネルギーを最小化しなければならない」というものである。生物の目的は感覚入力の予測能力を最大化することである。情報理論では予測の難しさをサプライズと呼ぶので、「生物の目的は感覚入力のサプライズを最小化することである」と言い換えられる。FEPの説明にはベイズ推定の話が関わってくる。どうやらベイズ推定というのも脳の働きを理解する上では重要とされ、脳はベイズ推定をするというベイズ脳仮説がある。

 このベイズ推定は当初研究者にもなかなか理解されなかったらしいが、その1つの理由はときに直観に大きく反することがあるからである。よく引き合いに出されるのは次のような例である。ある地域に伝染病が流行した。人口約10万人のその地域の1,000人に1人が感染していることが分かった。感染しているかどうか病院で検査を受けることができるが、その検査結果は100%正しくはない。陽性と判断された人でも1%は実際は陰性である(偽陽性)。また陰性と判断されても1%は実際は陽性である(偽陰性)。かなり精度が高い検査とはいえ、わずかな割合で偽陽性、偽陰性という間違いが出る。さてここである人が自分が感染しているかを知ろうと検査を受けたところ、結果は陽性であった。ではこの人が本当に陽性(真陽性)である可能性はどれくらいであるか。

 99%ではないかと考える人が多い。しかしベイズ推定に基づくと、この場合陽性である可能性は約9%である。この数字を聞いて、それはおかしいと思う人がけっこういる。だが実際に感染している人が、その地域では1,000人に1人、つまり0.1%であるというのが大きなポイントである。感染している人とそうでない人の割合は、この地域では100人と99,900人になる。検査を受けた人が陽性であった場合、その人が100人のうちの99人(真陽性)に入るのか、99,900人のうちの999人(偽陰性)に入るのかというふうにベイズ推定では考える。実際に陽性である確率は99人+999人、すなわち1,098人のうちの99人であるから、99÷1098で約9%となる。

 逆にこの検査で陰性と出た人が本当に陰性である(真陰性)確率はどれくらいかというと、99.99%以上となるので、まず陰性と考えていい。

 最初の条件つまり感染者が1,000人に1人という地域で、検査の精度が悪く、偽陽性、偽陰性が出る確率がいずれも20%となると、ちょっと驚くような数値となる。このような条件である人の検査結果が陽性と出た場合、その人が本当に陽性である確率は約0.4%に過ぎない。だが陰性と出た場合に本当に陰性である確率は99.7%以上である。PCR検査で偽陽性、偽陰性が出ることが避けられなくても、陰性と出ることの重要性はここにある。検査で陽性と出てもあまりあてにはならないが、陰性と出たらまず安心していいとなるからである。ただしこれは感染者の割合がきわめて低い場合の話である。

 すでに感染している人がどれくらいなのかが事前確率と呼ばれる。陽性と出たとき本当に陽性であるような割合を条件付き確率という。事前確率、条件付き確率がどうであるかによって、事後確率は大きく変わる。既に感染している人の割合が1,000人に1人(0.1%)ではなく、50%の地域であれば、この検査確率のもとで陽性と判断されたら、実際陽性である確率は99%になる。陰性も同様である。

 1,000人に1人しか感染者がいないというようなとき、感染は珍しい事例である。半分が感染していると珍しくもない日常茶飯的なことになる。珍しいことはそれが滅多に起こらないと予測できるが、日常茶飯のことはいつ起こっても不思議ではない。滅多に起こらないことや頻繁に起こることは予測がつけやすい。人のような影を見たとき、それが人であろうと予測するのはたやすいが、それが犬が立った姿だという予測はほとんどありえない。しかし実は犬が立っていたことが分かるとサプライズは大きい。それまでの認識(事前確率)を変える必要がある。まずないと思っていたことが、稀にはあると推測するようになる。

 どちらも半々かそれに近い割合で起こりそうなことは予測がつけにくい。Tシャツを着た若い男性が歩いていたとき、独身であるか結婚しているかの予測は難しい。どちらであるかが判明してもサプライズは小さい。それゆえTシャツを着ているだけで独身か結婚しているかを決めるのは難しいとする認識は変わらないだろう。

 

予測する脳

 意識的な予測の例を出したが、脳は環境に対し常に予測していて、それが一定の原理に基づいているというのがFEPの考えである。FEPは19世紀の物理学者・生理学者であるフォン・ヘルムホルツ(von Helmholtz)が唱えた無意識的推論が原理の元になっている。ヘルムホルツは「ヒトの感覚は不完全なため、無意識的に推論を行ない、不足した情報を補っているはず」と考え、これを知覚の本質とした。FEPは無意識的推論を情報理論・ベイズ推論の枠組みで定式化したものとされている*5

 FEPは知覚学習モデル以外にも運動学習、強化学習、コミュニケーション、精神疾患、自己組織化など様々な機能・現象をモデル化することが可能とされている。当然宗教現象の理解にも及んでくる原理と考えられる。FEPのもっとも重要な点の1つは、脳はまず予測するという点である。分かりやすい視覚の例で言うとこうなる。現実に何らかの対象があってそれを知覚して表象するというのが今までの理解である。目の前に丸いものがある。視線を動かすとそれが球体であると分かる。大きさや色、肌理などから判断してボールではないかと知覚する。こうして脳にボールが表象される。

 FEPでは、常に予測のプロセスが存在する。まず自分が見ているものが何であるかを予測する。そして視覚として得られた情報と生成したモデルとの誤差に基づいて、新しい予測を立てる。同じプロセスがくりかえされ、また誤差を測る。脳からの指令がトップダウンで知覚からの情報がボトムアップである。このプロセスを瞬時に数回繰り返してもっとも誤差の少ない知覚に落ち着く。それがまた次の何かの予測に使われる。このプロセスは意識されない。そんな悠長なことをやっていたら、生き抜けない。向こうから近づいているのが虎だと瞬時に認知できなかったら、命にかかわる。大谷翔平選手の脳内でも誤差のほとんどない予測が脳内で瞬時に生じるからホームランが打てる。予測能力を高めるのは練習であり、経験である。

 フリストンは「脳内で変化しうるすべてのものは、予測誤差を抑制するために変化する」とした。目の動きから日常生活の選択までそうだとした。脳は予測するが、その誤差が小さくなるように働いているというこの原理は、状況の把握にも使われる。そうすると人間の認知全般に関わることになる。予測する心(predictive mind)に関する研究は2010年代になると急速に広がった*6

 FEPは社会学や心理学でフレームとかスキーマと呼んでいたものを、包括的でより動的な原理として提起したと考えられる。冒頭のカメラマンの例なら、カメラマンは「大金持ち」らしい姿を予測しそれを被写体に求めて撮影する。サプライズが最小になるように予測と知覚される被写体の差を調整していった。

 

サプライズは小さくしたいが・・・

 人間は生きているうちにいろいろな経験をするが、何事も初めてのことを前にすると事前予測は当てずっぽうにならざるを得ない。実際に行動を起こして得られた結果を次の同様の予測に使う。そうやって次第に精度の高い行動に至る。FEPはそういうプロセスを説明してもいる。

 分かりやすい例はたとえば野球のボールを正確に投げられるようになるプロセスである。初めて野球のボールを握った人が10メートル先に構えている人のミットに正確に投げられるということはまずない。脳はそれまで何かを投げた経験などからとりあえず予測して運動指令を出す。何度か失敗を繰り返してだんだんミットに近づいていく。ボール投げに限らず、筆の使い方が上手になる、パソコンのキイボードの打ち方が速くなるなど、すべての習熟過程が同様である。予測と結果の誤差が少なくなる方向に脳は自動的に計算している。

 ではこれを人間関係に当てはめるとどうなるか。新しく勤めた職場の相手と仲良くなるには、まず笑顔で接することだという予測を立てたとする。ことごとくうまくいけばその予測が確率の高いものであったと認識され、笑顔で接することを続ける。しかし笑顔で接しても不愛想な人がいたり、かえって不機嫌になる人に会ったりすると、その予測を修正する。かならずしもそれがあてはまらないことがあるという予測になり、新しい態度を考える。誤差を少なくする作用はそう働くはずである。

 ここでカルト問題に飛ぶ。どういう経緯があったかは別として、自分が知るようになった宗教的指導者は信頼でき、自分を幸せにしてくれるという予測を立てた人がいるとする。教えに従って行動していたが、あるとき、自分は財産が奪われるばかりであるのに気付く。これは自分を幸せにしてはいないと気づくと、当初の予測からのサプライズが大きい。実は信頼できない人であると予測を変えて、信奉するのをやめ、脱会するという行為を選択することもあろう。ところが次々と献金を要求されても、それが自分の幸せにつながると思い続ける人にサプライズは小さい。予測との誤差は小さいと認識され、それまでの信頼をさほど変えなかったり、いっそう信頼するようになったりする。

 FEPは行動が実利的価値と認識的価値のバランスによって決定されることを主張している。これは宗教行動の理解にも参考になりそうである。献金することを「価値ある行為」と認識するか、「詐欺的手法に騙された」と認識するかで次にどう行動するかが変わる。では特定の行為系列のもとで目標達成までに得られる将来の不確実性を表す「期待自由エネルギー」が最小になるような行為系列を選ぶ、という一般原理で何が解き明かされるのか。

 FEPでは知覚、行動選択、学習のサイクルが次のように説明される。現在の外界の状態を推定するのが知覚である。未来の外界の状態の推定が行動選択である。そこから生成モデルのアップデートを行なうのが学習である。これを宗教的行動に即して考えると、具体的にどのようなことになるのか。とくに光を当てて考えてみるべきはどのような側面か。現代社会でカルト問題、ファンダメンタリズム、排他主義的宗教運動などがなぜ絶えないのかが、少しは解きほぐせるものなのか。FEPについてはもう少し思いを巡らせてみたい。


※次回は12/8(水)更新予定です。

 

*1:この調査の経緯等は、レオン・フェスティンガー他『予言がはずれるとき―この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』(勁草書房、1995年)に述べられている。

*2:イエス・キリストの再臨の際に起きるとされる現象で、救われる人たちが一挙に空中に引き上げられるとする観念。2014年製作の米国映画『レフトビハインド』は携挙の場面を扱っている。

*3:朝日新聞 2010年5月7日付夕刊に掲載された宇沢弘文のエッセイを参照。

*4:乾敏郎『脳の大統一理論―自由エネルギー原理とは何か』(岩波書店、2020年)は、フリストンの考えを分かりやすく解説してある。

*5:磯村拓哉「自由エネルギー原理の解説:知覚・行動・他者の思考の推理」(『日本神経回路学会誌』25-3、2018年)を参照。

*6:たとえば、ヤコブ・ホーヴィ『予測する心』(勁草書房、2021年)を参照。

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