宗教文化の網の目

「宗教を信じること」が暴走しないために。偏見や差別、暴力の助長に宗教が加担するような局面を減らしたい―。一筋縄ではいかない問題を、井上順孝さんが考えます。

第10回 ミラーニューロンの謎の力

ミラーニューロン説との遭遇

 ミラーニューロンという言葉に初めて接したのは、ある科学雑誌の特集だった。2000年代前半であったと思うが、年月までは記憶が定かでない。ただその記事の内容から、かなり強いインパクトを受けたのを覚えている。以後ミラーニューロンに関する話には自然と注意が向いた。

 ミラーニューロンは1996年にイタリア・パルマ大学の神経生理学者であるジャコモ・リゾラッティ(Giacomo Rizzolatti)教授らのグループが、マカクザルの実験中に偶然見出した。グループはマカクザルの脳に電極を入れ、運動前野にあってモノをつかむ行動に関わりのある領域(F5野)を調べていた。すると、サル自身がモノをつかんだ時に発火する*1ニューロンと、実験をしていた研究員がモノをつかむ行為をサルが見た時に発火するニューロンのパターンが、非常に似ていることに気づいた。ここからミラーニューロンと命名された。他者の行為をまるで自分の行為のように、脳内に直接映し出しているように見えるとして、ミラー(鏡)という言葉が選ばれた。

 2012年にリゾラッティ教授が来日し、東京大学本郷キャンパスの伊藤国際学術研究センターで講演するという案内があった。さっそく申し込んで当日会場に赴いた。だが席に着くと、なんと教授はぎっくり腰で来日できなかったというアナウンスがあった。代わりに京都大学の松沢哲郎教授の講演が行なわれた。チンパンジーの模倣や利他的行動の話で、それも面白かったが、リゾラッティ教授の話を直接聞けなかったのはやはり残念だった。

 運動前野は前頭葉の後部にあるが、やがてミラーニューロンのような機能は人間にもあると分かってきた。類似の機能を含めミラーシステムと呼ばれる場合がある。サルとヒトとでは脳領域の構成に違いもあるが、ミラーニューロンは似たような領域にあるという。サルの場合は脳に電極を埋め込む侵襲的研究が可能だが、人間に対しては倫理的観点からそのような実験はできない。脳の機能地図発見のパイオニアであるペンフィールド(W. G. Penfield)は、1933年にてんかんの治療のための開頭手術の時、脳を電極で刺激する実験を行なった。むろん今日ではこのようなことはできない。人間の脳を調べる時は、間接的つまり非侵襲的なやり方で調べる。fMRI(機能的磁気共鳴画像法)やMEG(脳磁図)などの方法を用いる。

 脳神経科学者などの実験結果は非常に興味深いが、人間が他者の感情や行為に無意識的な反応をすることは、日常的に体験されている。たとえば次のような現象は誰でも馴染みがあろう。大きな怪我をした部分を見せられて、自分の体のその部分にも痛みがあるように感じる。とても悲しい出来事を涙ながらに話すのを聞いて、自分とは直接関わりのないことなのに、思わずもらい泣きをしてしまう。目の前の人が大きなあくびをして、それがうつったかのように自分もあくびをする。あくびのミラーニューロン説は実際に検証した研究者がいるようだが、否定的な結果が出されている。

 これらに類する現象は、すべてがミラーニューロンあるいはミラーシステムだけで説明できるものではないが、関わりを持っているものがありそうである。人間の感情の反応にミラーシステムが関わっていた場合、肝要なのはこの反応が無意識的に起こることである。いろいろ考えた末に出てくる反応とは性格が異なる。単純な仕組みなようで奥行きは底知れない。

 

他人を「理解」する困難さを嘆く前に

 20代の頃から宗教に関わる調査を各地で重ねる機会があった。祭りの調査、新宗教の関係者との面談調査、日系移民の調査、教団調査などと、多少タイプの異なる調査を経験した。地域も福島県の会津田島、北海道の常呂町(現北見市)、奄美諸島、ハワイ、カリフォルニアと、一見脈絡のなさそうな並びになる。いろんな形で聞き取り調査に臨んだが、とくに信心深くない人や、信仰一筋の人、寡黙な人や、宗教の話になると止まらない人など、いろいろな人に出会えた。調査への足腰が十分固まっていなかったせいか、相手が考えていることを理解する難しさに、いくばくか心を悩ませる時期があった。

 そうするうちに、相手の考えていることを理解できるという考え自体が、不遜なものに思われてきた。そして少し開き直りのような気持ちが生まれた。どのみち相手を理解すことなどはできない。自分でも自分の心が分からない時があるし、なぜそのような行動をしたのか十分説明できない時がある。他人の心は分かるはずがないという覚悟を決めた上で、伝わってくるものがあれば、それを大事にすればいいのではないか。そんな考えである。この連載の第4回で言及した「『理解』という名の『誤解』」というエッセイの最後を次のように結んだ。

 調査時の、いろんな人との出会いは、他の人の心を思いやることの難しさ、そして自らの体験の乏しさを痛感させます。けれども、考えてみれば、日頃つき合っている親しい相手でも、深く理解することは容易ではありません。どれ位互いに理解しているかを確かめ合うのは面倒くさいことですから、誤解には素知らぬふりで会話が続くのです。むしろそれぞれが互いを適当に誤解していた方が、日常生活はスム-ズなのかもしれません。「人は自分を美しく誤解してくれる人を求める」ような気もします。

 これがハワイやカリフォルニアでの日系人の宗教調査を終えた1980年代前半における心持ちの一端であった。相手の心の奥底までは分からないと、どこかで思いながら調査に臨む態度は、その後も大きくは変わらなかった。1980年代に多くの新宗教教団を調査した時も、できるだけ相手の考えや心情を分かろうとは努めたが、限界は覚悟の上であった。漸近線のようなものであろうか。会話や付き合いを通して、しだいにある座標軸に近づくが、決してそこに到達はしない。

 ところが、ミラーニューロンの話は、そうした言うなれば「超越したような心持ち」を吹き飛ばす効果を持っていた。確かに相手の心の機微は分からない。だが意識しないうちに感じ取っているものがある。その能力は人間の遺伝子の中に組み込まれていて、大なり小なり、人はそれを使っている。そのことの持つ意味の深さに足を踏み入れることになった。

 まったく異なった環境で、違う育ち方をした人間同士が、とくに深く知り合う前に、相手の何かを感じとってしまうことがある。眉のちょっとした動き、口元の緊張、まばたき、指先の動き、そこから重要な感情の動きが読み取れることがある。こうしたことには長けた人とそうでない人がいる。また訓練によって、ある程度読み取り能力が高まる。だが、ミラーニューロン説が示していることは、訓練や修行によって生じる洞察の類とは異なる能力である。

 マカクザルは実験室で研究員の行動を読み取る訓練を受けたわけではない。少なくとも霊長類にはすでに遺伝的に組み込まれている能力に違いない。味にうるさい人がいる。微妙な味を識別できる人がいる。何を料理の素材に使ったか当てられる人がいる。利き酒のように資格認定制度があるものもある。そのような細かな違いの識別とは別に、人間が甘さが分かり、甘いものに惹かれる点は、努力とか育った環境以前のものである。それと似ている。五感の基本的能力は言うまでもなく、遺伝的に継承されている。

 

手の動きへの無意識的判断

 マカクザルでの発見は、手で何かをつかむ動きへの反応であった。手でつかむという行為は、生存にとってきわめて重要な位置を占める。人類の祖先はアフリカの草原で生活する前には、樹上生活を送っていた時代があったとされる。枝から枝へと移動する時、つかむという行為は必須である。指も枝をつかみやすいような構造になった。親指と他の四指でしっかりと物をつかめる。

 人間は箸やスプーン、あるいはフォークを使って食事する文化を作り上げたが、道具を使う文化が広まる以前は手でつかんで食べた。水を手ですくったこともあったろう。今でも手で食べ物をつかんで食べるのが普通に見られる国もある。現代日本でもおにぎりはむろん、お寿司でも手づかみの場合がある。フライドチキンを手で持ってほおばる時の満足感は、味だけから来るのではないかもしれない。人類学者のジョン・ネイピアは1961年の論文で*2、霊長類の手の機能について言及し、手によるつかみ行動(hand grasping)を「片手で食物を口に持っていくことができる」と定義している。つかむという行為が食べることと結びつけられていて、とても興味深い。

 食事という生命維持にかかわる手の動きへの反応は納得できるが、宗教の儀礼の場面における手の動きは、どれほどの無意識的反応を他者にもたらすのであろうか。神職は神前では拍手(かしわで)を打つ。出雲大社では四拍手だが、多くの神社では二拍手である。修験道や密教では九字を切る。九字はもともとは中国の道教由来である。九つの字を唱えながら、右手の人差し指と中指を合わせた形で、左右、上下に9回振る動きがある。カトリックのミサでは神父が十字を切る。

 禅の公案の一つに「隻手音声(せきしゅおんじょう)」がある。江戸時代の臨済宗の僧侶白隠は、「両手を打つと音がする。片手ではどんな音がするか?」と問いかけた。両手を叩くことで音が出る、と予測する人間に組み込まれた反応を逆手にとっている。無意識に想定している事態と異なる事態、それも想像したことがなかったような事態に思考を立ち向かわせる。

 ここでは手の動きそのものが問題にされているのではなく、言語化された手の動きが主題になっている。両手で叩く行為を、片手だけにして日常的思考の慣れにクサビを打ち込む。誰が手を打ったか、激しく打ったかやさしく打ったかなどは問題とされていない。実際の場面なら手を叩くという行為を一括りにして、それに対する反応を語るのは難しい。パシッと目の前で両手を叩かれるとびっくりするが、軽く叩いたなら驚きはしない。子どもが叩いた時と、大人が叩いた時とでも反応は変わるだろう。叩く動作への無意識の反応であっても、手の動きがどんな環境でのものかは瞬時に判断される。さっと差し出された手が、友好の証か、攻撃の第一撃か、それを瞬時に判断できなければ、生命に関わりかねない状況もありうる。

 

鏡の中を覗けるか

 拍手を打つ、九字を切る、十字を切るといった表現は、ある固有の動作についての宗教用語である。手の動きにはすでに文化的意味づけが付与されている。従ってそれに対する反応は、ミラーシステムとは別の要因が大きく介在してくる。

 拍手の場合で考えてみよう。道で近くにいた人がいきなり手を叩くと何事かとびっくりする。しかし、その人の立っている正面にお稲荷さんがまつってあるのに気づくと、「神様に拝むための」拍手と了解され、それなら怪しまなくていいと判断する。けれども、初めて日本に来てまもない、かつ日本の宗教について何も知らない外国人が、たまたまその光景に出くわしたらどうだろう。お稲荷さんに気づいても、拍手という理解の枠組みがないから、怪訝に思う気持ちがなくなるとは思えない。

 拍手を打つ前後には拝礼をする。九字には言葉が付随する。その行為の意味づけが了解されていれば、一連の動きが特別の感情をもたらす。宗教文化が複雑さを増したことで、儀礼における一つひとつの動作は、いわば複雑なネットワークの一部になった。神社に略式参拝する人は、拝殿の前で一連の行為をする。賽銭箱に賽銭を入れる。ぶら下がった鈴緒を揺らして鈴を鳴らす。拝礼して拍手を打つ。少し願い事をする人もいる。順序は多少違っても、おおよそこのような行為が一般的である。全体として神への祈願なり感謝なりがなされたことになる。拍手はその一部という位置づけを与えられている。

 宗教文化ごとにフォーマットされた儀礼の研究は盛んになされている。しかしミラーシステムの研究は宗教儀礼や実践の個々の動きの理解にも、新しい地平をもたらす可能性がある。その新しい地平に見えるものは、宗教が始まる以前の古い世界になりそうである。ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』で起こったように、近付こうとすると遠ざかってしまう相手に出会うのかもしれないが、覗きたくなってしまう世界である。

 

※次回は5/12(水)更新予定です。

 

*1:ニューロンが次のニューロンに信号を送る時に起こる現象。他のニューロンから一定量(閾電位)を超える電位が来ると、瞬間的にそのニューロンのシナプスの活動電位が生じる。これをニューロンの発火と言う。

*2:John Napier,“Prehensility and opposability in the hands of primates,” Symp Zool Soc Lond 5, 1961.

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